民家と见纷う落ち着いた伫まい。ノボリが立っていなければ、とてもお店とは気付けない 是什么意思

Rubyに型を付けるRubypeというgemを作ったヨ! - Qiita
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ThankThankThankThankThank
という指定が実は
typesig foo: [String, {Symbol =& Struct}]
のことだというのは何とも落ち着かない気持ちになります。
等の方がましでしょうかね(returnがちょっと..という気もしますが)
ThankThank
ではダメでしょうか。引数のみのチェックだと
typesig :foo, args: [String, Symbol]
と,余計な Any も不要ですし。
ところで,型については,(とくに返り値のとき)「String または NilClass」みたいな指定ができると嬉しいです。
通常のメソッドだけでなく、attr_accessorについても型の指定ができるとよいと思います。
class People
typed_attr_accessor :weight =& Numeric
typed_attr_accessor :name =& String
p1 = People.new
p1.name = 100
#=& エラーになる
#=& @nameがStringで無かった場合にはエラーになる
ところで,型については,(とくに返り値のとき)「String または NilClass」みたいな指定ができると嬉しいです。
この書き方についてなのですが、下記のような記法で指定できるようにするのはどうでしょうか。
typesig foo: [Anyone(String, NilClass), Symbol =& Struct]
typesig foo: [typeor(String, NilClass), Symbol =& Struct]
また、「○○ または NilClass」は特に頻繁に使う表現だと思われるので
下記のような記法を用意していただけるとよいと思います。
typesig foo: [String.or_nil, Symbol =& Struct]
typesig foo: [String.nillable, Symbol =& Struct]
以上3点、一案としてご検討ください。
(採用にならなかった場合は、特に返信していただかなくても構いません)
ThankThankThankThankThankThankThank
送信いただいたご意見への返信は行っておりません。返信の必要な内容については、 からお問い合わせください。幸せとはいったい何でしょうか?
心から本当に望んでいるもの、真の豊かさ、幸せとはいったい何でしょうか?
Everytime you act you add strength to the motivating idea
behind what you have done.
たった一度きりの人生を如何に生きるのか?それがボクの大きなテーマです。ここ数年、年を重ねてきたせいか分かりませんが、時々人間の死について考えたりします。
もしボクが死に直面した時どんな思いになるのだろうか?一体いつどこで、そしてどんな死に方をするんだろう?等々、、、暗いかな?、、
と同時にどう生きるのが本当の幸福か?一体ボクの役割は何なのだろうか?手ごたえのある人生とは?、、そんな事を考えていると生命の意味とか、この地球上の営みとか、今世界で起きている事とかを深く考えるようになりました。
そしてもちろん明確な答えは見つかっていませんし、死ぬまで模索していくのかもしれません。
一体ボクの中の物事における優先順位は何なのだろうと考える事があります。若い時はそんな事も考えず短期的な目標に向かって行っていたように思うのですが、最近は一体これでいいのだろうか?間違った事に努力していないだろうか?自分の心の動きはどうなのだろうか?と自問します。
それで思う事は、普段は意識しないボクがやりたい、あるいは実現したい、手に入れたいと思い描いている事の裏側にある動機は一体何なのだろうか?という事です。
そう、その隠れた動機がどうやら実は重要だという事に気が付いてきました。何かをしたい、と思う時に「なんでそれをしたいと思うんだろうか?」と自分に問いただします。
例えば、「トレーニングをして強くなりたい」と思う、で、なぜ強くなりたいのか?昔と違い体力的に強くないと生き残れないという厳しい時代じゃありません。
根本的に強くなるとはどういう事なのだろうか?、、、肉体的に強くなって精神的なゆとりを獲得したいのか?、、、
確かにそれはある、、、でもそれだけじゃない気がする、、、
強くなる事の目的、、、人に認められたい?、、、確かに認められたいと言う気持ちはある、でも強くないと認められないのだろうか?、、、そんな事はないけど、弱いより強ければ直ぐに人に認められる、確かに、、、人に負けたくない、尊敬されたい、良い立場に立ちたい、という理由も同じ様な事かもしれない、、、
ホントは弱虫で、そんな恐怖心に取り付かれた小さな自分の殻を打ち破りたい?、、、
恐怖心、、、確かにあるし、これは誰にでもあると思う。トレーニングで乗り越えられるのだろうか?、、、、恐怖心とは一体なんだろう?、、、単純に痛い、辛い、苦しい、、内面では遠い昔に刷り込まれた記憶、未知なる物から自分を守ろうとする本能、、、恐怖心はある意味自分自身の心(記憶)が作り出しているものかもしれない。
それなら慣れると、つまり繰り返し同じ様な刺激を受け止め続ける事で恐怖心が薄らいでいくのか?、、ボク個人の経験からある部分ではそうだと思う。ある意味自分に自信を持つと言う事かもしれない。
厳しい肉体的トレーニング等を繰り返しそれを続けていくと痛みや辛い不快な感情に慣れて、精神的にも立ち向かう心構えが出来きていく、、、それが精神的ゆとり、安定とかにつながって恐怖心(自分の心が描き出した偶像)は薄らぎ、それ程たいした事ないと感じる。
気持ちが弱いままでも、トレーニングして体がでかくなれば小さいよりも強そうに見えるという部分はある、、、
一方で異性にもてたいと思う感情もある、強い=かっこいい、だから強くなりたい。
それもある、好きな人が見てると、がぜん張り切るなんて事もあるだろう、認められたいという感情とも似ている、となると「強くなりたい」というのは純粋な強さだけが本当の目的ではないというのが分かる。、、、思考や行動の裏にある本当の動機、、心と体は色々な感情と密接に関係しているようです。
単なるトレーニングという行動一つにとっても、その為の動機は様々なのが分かります。なので、一見同じようにトレーニングという行動をしている人達でも、その裏側の動機は全く違うわけです。
例えば、人助けをする人達がいるとします、行動だけを見れば皆同じです。でもその人達がなぜ人助けをしているのかはそれぞれ違います。
純粋に困っている人を助けたいという気持ちの人もいれば、他人の目を意識して自分の評価の為に行動する人、借りを作って後で見返りを期待する人、本心ではないけど規範意識でそうする人等々、、、その人がなぜそうするのかを見ず、行動だけ見て判断すると、見誤る場合があります。
又、ある人を嫌いだとします。なぜ嫌いなのでしょうか?「行動や言動が自分勝手で自己中心的、わがまま、軽薄、陰口をいう、等々」とにかく色々な理由で他人を嫌になる理由があると思いますが、その判断をする時に本当にその人をどの位知っているのでしょうか?
うわべだけで判断していないか?他人がつけた評価をそのまま鵜呑みにしていないか?大人になると答えを導き出す自動的な回路がよく発達しているので、ちょっとした情報のみで直ぐに答えを出す傾向があります。なので大人の判断は意外と怪しい物です。
或いは嫉妬等からくる自分の不満がそういった感情の元にある場合もあります。更には、実は他人の嫌な所は実は自分自身そのもので、自分自身を他人に投影しているんじゃないか?
つまり本当は認めたくない自分の真の姿をを他人に見ている様だから嫌だ、という事もあります。好き、嫌いと言う単純な感情でも心の裏側には色々複雑な動きがあります。
又例えば「英語等の外国語を自由に喋れる様になりたい、コミニケーションを取りたい」と思う、、、どうして外国語を勉強したいのか?、、今の日本では外国語を知らなくても生活に特に困る事はありません。ではどうして?、、、「外国語が出来ない人に自慢できる」(^^;)、、単純なケースではそうかもしれない、、、実は人に自慢したいという裏側の本当の動機が見え隠れします。
または仕事で必要に迫られてという人も多いでしょう、好き嫌いに関わらず外国語が出来ないと仕事に支障がある、或いは昇進に影響が出る、さらにはリストラされる可能性がある等々深刻なケースもありそうです、この場合外国語を学ぶ理由は何であれ本当は他人との差別化による自分の保身というのが真の動機です。
つまり少しでも他人より有利な立場に立ちたいという願いがある事が分かります、でも本当は外国語自体には興味ないので実際に使えるレベルになる為には相当ハードルが高い訳です、学問に興味は無いけど試験をパスする為だけに必死に受験勉強をしている状況に似ています。
外国語が解る事で、「外国人と知り合う事が出来る」「外国文化を知る事が出来る」、、うん、それでは外国人と知り合ったり外国文化を知って何をしようと言うのだろうか?、、、趣味、仕事、更には「今好きな人が外人だから」、、そりゃそうですね(^^)、、、もちろん只単純に新しい知識を得たり、違ったものへ興味が強く、わくわくして嬉しいという感情もあるでしょう、、、この様に、どうして?なんで?を繰り返すとなんとなくそれまで意識していなかった裏側の部分が見えてきます、そう、この裏側が大事なんです。
それまでやりたいと思っていた事が実はその事自体をしたいのではなく、その結果手に入るものがホントは欲しかったという事に気が付くことがあります。又他人に期待され、特に親から期待され、その期待にこたえるため、喜んでもらう為に何かをするというのはよくある事です、地位や名誉等を得たいというのもある意味この類です、これが又厄介なんです。
本当はあるがままの自分でいたいし、わがままも言いたいし、甘えたり、好き嫌いを自由に言いたいと願うものですが、嫌われたり、見捨てられるのが怖かったり、他人の期待や他人の評価を気にしていると自分自身の本当の姿を阻害し、抑圧して行動しはじめて、結果自分が本当に何をしたいのか、自分は一体何なのかが分からなくなる時があります。
例えば、ホントは愛されたいのに、その相手に振り向いてもらえない、そしてその本当の感情の敵意や憎しみを相手にぶつけると余計嫌われる、だから自分の真の姿を隠し、よい人を演じたり、好かれようとカッコつけたり、親切になったりする。
でもそんな生活を続けていると次第に自分を失い、何に対しても関心が無くなり、無気力、無力感、無意味感に支配されていってしまったりします、、で、本当の感情はというと、怒りや憎しみ、そしてその背後にある行動の動機は?、、、そう、在るがままの存在を愛して欲しいという、愛情欲求です。
という事は自分の心の中の本当の動機に気が付いて、本当に目標としているもの(本当の目的、真の欲求)を見極め間違わない事が大事なんだという気がしています。そうする事で心が本当に求めている欲求を満たす事になるからです。
心の奥底に、「ホントはこれがやりたいんだ、、、」「これをするのが夢だった、、、」等があって、自分が望んでいる本当の動機にも気が付いている、でも親や他人の目、世間体等々でそれを抑圧して心にしまいこんでいる。そして感じないように日々過ごしていく、、、でもその想いは普段の生活に不満だと屈折した形で表に出てくる事があります。そしてその結果は悲惨かもしれません、、、もしまだ実現していない希望があるとしたらそのための選択肢はたった2つです。とにかく行動を起こすか、或いは諦めるか、です。
行動を起こして挫折し最後に諦めたのならまだいいですが、何もしないで諦めたのだとしたら将来後悔するかもしれません、特に今の生活に不満ならいつまでもその後悔の想いを引きずってしまうでしょう。で、その時に悔やんでももう遅いんです、、、。でもこれは良くある事です。いつまでたっても過ぎ去った過去に捕らわれていて、今を生きる事が出来ない。
身近な問題の恋愛でも同じです。恋に破れたとしても、心が健康なら現実を受け入れて執着しませんが、何か満たされず抑圧した感情を持った心の持ち主は、過ぎ去った破れた恋なのにそれに執着して離れられないで、いつまでたってもその事をクヨクヨ悔やんでたりします。
「あの時ああすれば良かった、こうすればこんなはずじゃなかった、、、、」周りでこういう事を言っている人はいませんか?、、どうしてその人はそうなってしまったのでしょう?、、自分がそうならない為には冷静に一度自分自身を見つめ直す必要があると思います。自分はどうしてそれを手に入れたいのか?今の自分は他人の期待にただ応えようとしているだけじゃないのか?、、一体自分は在るがままの本当の自分の気持ちに素直なのだろうか?と、、、
ボクはよく自分自身に問いかけます、人生はたった一度きり、自分に嘘をついて生きたって、それは生きたとはいえない。何があろうともいずれボク達は皆死ぬわけです。じゃあどう生きるべきかなのか!?と、、、
マラソンランナーの高橋尚子さんが東京国際マラソンで優勝して、そのインタビューで「もう戻ってこない時間を大切に、一日24時間、チャンスは皆平等にある、夢をあきらめないで、、、」という熱い言葉を聞いて感動した人はボクだけではないでしょう。それを聞いたボクは、驚きと共に、トップアスリートの彼女さえもボクと同じ様な事を感じ、考え、そして日々頑張っているんだなぁとある意味勇気づけられた感じです。ボクだって同じ人間、やれば出来るんじゃないか?そんな感じがしました。(レベルは違いますが、、、(^^;)) マラソンはホントに自分との戦い、、、人生そのものですね、、、
高橋さんに限らず、情熱を捧げ、沢山の人に勇気を与えている人達はホント素晴らしい。こんな人が沢山居ると世界はもっと良くなるんでしょうけれど、、、。高橋さんはマラソン、そして私達には私達の世界、ボクや皆さんにはそれぞれ違った役割があると思いますし、ボクも微力ながら色々頑張っています。でも行動を起こさなければ何も変わりません。皆さんもそれぞれの情熱を捧げられる本当に自分の心が欲しているものに力を注いで頑張って行こうではありませんか!
その為にはそれが出来る状況をコツコツ作っていくしかありません。その為の一歩としてまずは出来るだけ収入を増やし時間的、経済的にゆとりを作って、心の余裕が生まれた上で、人生についてもっと深く考えて、より良い人生とは何かを考えてみませんか?という事なんです。
でも気をつけなければ行けないのは現代社会で生活していく上でどうしても避けて通れないこの収入、すなわちお金を得る事ですが、そこを勘違いすると人生が微妙に狂ってきます。誰でもお金は欲しいです、ボクも欲しいです、でも大金を掴んだからと言ってもそれで必ず幸せになれるとは限りません。
知人に経済的に裕福な人がいますが、その人は実はとても孤独です。、、、「財産は残したけど今は病気で入院してます、そして振り向いたら誰も居ませんでした、、、」「お金は沢山持ってます、でも心許せる人はいません、、、」なんて余りに寂しすぎます、、、。
とにかくバランスが大事なんです。今は忙しいから、、考えてる暇がないから、、、等々、後回しにしていると後々取り返しのつかない状況になってしまいます。そこの所は十分注意が必要です。
食べていく為には今の日本では自給自足でもしていない限りどうしても収入が必要です。ですのでとにかく収入を増やす為に今は頑張りましょう!そして一日でも早く次のステップ、つまり希望を実現する為の準備をしましょう、でもそればっかりやり過ぎるとまずい事になりますよ!と言うことです。
目的が収入を得るためにだけにならないように注意しないといけないと思いながらも、知らず知らずのうちに「お金儲けだけに夢中になっていた、そしてお金に群がる卑しい人たちばかりに囲まれ、裸の大様になり、気が付いたら大切なものを失っていた、、、」なんて事にならないように、、、今もし隣の家の芝生が青く見えているとしたら、、、要注意かも、、、
何かを始めるのにある程度の資金は必要かもしれませんが、それ程なくても何とかなるものです。本当の目的はお金を貯める事ではない訳ですし、生きている間にいくら沢山お金を貯めても墓場までは持って行けないわけですから、どうお金を使うかが問題です。仲間や家族等の人間関係を大切にして、そういった人々と喜びを分かち合いながら人生で本当にやりたい事をしていく事の方がお金儲けより何倍も幸せだと思うのはボクだけでしょうか?
でも老後のために蓄えておかないと、という方も居るでしょう、又子供や孫に財産を残したいと考えている人もいるでしょう、貯蓄している殆どの人はそうなのかもしれません、ある意味心の安心ともいえます、よく分かります、でも良く考えてみてください、あなたの人生の時間はお金を貯蓄する為にあったのか?と、、
人は色々な心配事があります、特に悲観的に考える人はそれが神経症の原因になる場合もあります、これはどこかで読んだのですが、心配事の9割は起こらないそうです、そうなんです、心配するという無駄な事でより自分を痛めつけ、その心配事を呼び寄せています、でも結果心配したとおりにはならなかったというのが殆どです、
でも、悲観的な人は常に否定的なことに注目しています、良い事も沢山あるのにそれを見ようとしません、悲観的なことばかり良く覚えていて、たまたま起こると「そらみろ、心配したとおりだ!」とその考えを強化しているんです、、何とも気の毒です。
良い事は無視し、悪い事ばかりに注目する、これは習慣化してしまい、結果どんどんそれを強化し続けます。
考えて欲しいのは、心配事の殆どは起こらないということなんです、多くの無駄な心配事のために無駄な時間とエネルギーお金を使うのは止めましょうという事です。
又、子供や孫に財産を残したいという人、分かりますが、それで彼らはそれで幸せになるのでしょうか?なにも努力せずそういったものを得てしまったら、、何か人生の上で努力するというチャンスを奪ってしまっていないでしょうか?
又良く聞く遺産相続などお金に関わる問題は人間関係を破壊しているという現実です。時にお金は人間の心を変えてしまいます。
愛情はお金ではないはずです、お金や財産で愛情を表現したいという気持ちは分かりますが、それは時としてそれは受け取る人達のためにならないという事です。
いずれにしても、自分自身の人生の時間を通し、様々な心を豊かにすることをすることで、自分自身はもちろん、その周りに居る人たちも幸せになる気がします、ではどうやってその心を豊かにする時間を手に入れるのか?色々な方法があると思いますが、そのうちの一つの方法がボクがしている方法かもしれません。
とにかくインターネットの仕組みはとても強力な武器といえます、又色々な可能性を含んでいます。たった一度の人生だからこそボクは自分次第で自由な時間が取れて、ワクワクするような事が出来る生き方を選び、もっと人と心が触れ合える人生を手に入れたいと思っています。そして、今その大きな手助けになってくれているのがインターネットの仕組みやホームページ(ウェブサイト)なんです。そしてこれは誰でも出来ます!
本当に心が豊かになる事、惚れ込んだ事をするのに専念して暮らしていく為だけにお金と時間と情熱を費やしてもっと自由な人生を獲得したいと願う、、、もしそれが可能ならやってみたい、、、、可能性は誰にでもあります、後はやる気(背後にある本当の動機)の問題です。
でも何もしないか、たとえ始めたとしても途中であきらめてしまう人が多いんです、なぜでしょう?、、、、本当の所はボクにも分かりません、又しない事が本人にとっては幸せな場合もあります。でもその様な人生における消極的な行動の原因は何かしら自我形成時期に関わっている場合がある気がします。
他人に迎合し、自分がしたい事をするのではなく、他人から期待されている事をして気に入られようとする、自己肯定感が乏しく、自分を信頼していない、つまり自分を信じていないんです、だから他人も心から信頼できない、他人は辛らつな批評家と思い込んで、本当の自分を見透かされまいと常に緊張状態で批判を恐れている。他人の批判を恐れる余り何もしないでいる、でも抑圧された本当の感情が心の奥底には確かに存在している、それを正常に処理できない為自己嫌悪とジレンマに陥る、終いにはノイローゼやうつ病にまでなる。
他人を信頼していないのでそれを全て一人で抱え込もうとします。でも周りには他人を信頼している素振りをする。そうなったらその人自身はもちろん、周りも不幸です。いずれそれが外に爆発するか、自分を傷つけるようになります。
実はある時期に、似たようなものがボク自身の中にも多少あった事に気が付いたんです、、具体的に理解したのはかなり後ですが、、、。ボクの場合は自分を信頼していないと言うより、在りのままの自分は他者(特に親)から認められない存在、つまり在りのままの自分はたいして価値の無い人間なのではないか?そういう不安感から来る自己否定的な劣等感でした。
その為虚勢を張って、ホントは弱虫のくせにつっぱって強がってみたり、他人に印象付けようと目立とうとしたり、この感情は思春期の時期に強くなり、又学問にも興味が持てなくなっていて(と言うより学問は好きだったけど理解速度が少し遅かった、そして追いつけなくなった)その為成績ははっきり言って悪く、いわゆる落ちこぼれでした。
そういった部分で自分は勉強は出来ないと思い込んでいたので勉強はやる気になれず、やらないから更に成績が悪くなり、ふてくされ、自分の間違った思い込みを強化していました。又その時期は非難はされても褒められるという事があまり無かったので心のどこかで自分は世間の厄介者、恥ずかしい存在、自分なんでどうでもいいんだ、、、等と思ったり、物事を余り肯定的に捉えられていない感じでした。そのせいか当時は親ともうまくいってなく、又親戚の人達等にも余り会いたくありませんでした。会えば他の子達と比べられるからです、、、
「誰それちゃんはあそこに通って、あーしてこーして等々、偉いね~」等と他の誰かを褒めているのを聞くと、褒めてはいるんだけど何だか愛情を感じない、でもボクについての話は特に無く、認められるような事をしないと話題にすらならない様な雰囲気、居ても居なくてもどっちでもいい、、、ボクが落ち着ける場所ではなく、心のうちを誰にも話せない苛立ちを覚えていました。
特に殆ど会うことの無い親戚のおばさんに中学生の頃みんなの前で「何そのかっこう?そんなのみっともないよ」の様な事を言われた時の事を今でも忘れません、、、殆ど話もしないのに、いきなりそんな言葉、しかも人前で、、、確かに今から思えばダサいカッコをしていましたが当時はカッコいいと思ってた訳です(^^;)、、親しい親戚の人ならともかく、その人から言われた時に何ともいえない怒りを感じたのを憶えています。
又ある時親戚の引越しの手伝いに行かされ、実際一生懸命物を運んだりしていたボクがちょっと休んで丁度来ていた他の親戚の子と話をしていると、親戚のおじさんがいきなり来て「お前はここに何しに来てるんだ?サボってるなら帰れ!」とボクだけが怒鳴られて、「何で俺だけが文句言われなきゃいけないんだ!」「ちゃんと手伝っていたのに、、、」と悔しい思いをしましたが、その時にこの親戚の人達はボクを煙たがっているんだなと言うのがはっきりしました。
そんなせいかボクは在りのままの自分では駄目なんだ、という劣等感と、同時に何ともいえない苛立ちに「じょーだんじゃねー!」みたいに反発していました。でも、もちろんその時期はそんな自分を分析していた訳ではなく、今振り返るとなんでああだったのか?、、、と言う部分に気がついた訳です。
要は在るがままの自分を素直に受け入れ、自分は自分のままでいいんだと思えず、又周りからもありのままの自分を受け入れられていない様だなという事を薄々感じていた為、その時期のボクは自己肯定感が余りもてずにいたので心は荒んでいたように思います。そしてそんな自分を守る為につっぱっていた気がします。
ただ、中学時代は心許せる友人がいた事と、プロレスに熱中していた事が唯一の救いで、その為多少は自分の世界を保ち、ある意味どこかに小さな希望を持っていた気がします。
又中学時代絵が多少うまかったボクはクラスの行事の為に当時流行っていたプロレスのレスラーの大きな絵を描いて褒められた事があり、やれば理解してくれる先生もいるんだと分かった事で、少しは心のバランスを取り戻した部分もありました。
当時の心の支えと言えばボクを熱中させていたプロレスラー、アントニオ猪木の著書「苦しみの中から立ち上がれ」でした。迷った時、悔しい時はこれを読んで自分を勇気付けていました。当時はプロレスラーに真剣になろうかとも思っていました。
ただそんな夢とは裏腹に現実の世界ではうっとおしい親等には反抗し、自分の本当の想いを誰にも打ち明ける事は無く、特に理由も考えず何とか高校に進学するも、勉強はせず、残念ながら高校では良い先生に恵まれず、プロレス熱も冷めて行き、高校等で知り合った悪友達等とうわべだけの付き合いを繰り返し、親友と呼べる仲の友人は出来ず、仕事に付いた後は一応仕事は真面目にしていて仕事自体の面白さはありましたが、何か分からない心の隙間を埋める様な毎日で将来の希望が持てていなかったように思います。
なぜか?本当の自分の心と向き合っていなかったからでしょうか、、、週末にはアメ車仲間と会い(当時ボクは古いポンティアックを自分で改造し乗っていました)夜中に仲間とドライブしたり、仲間と飲み明かしたり、今から思えば懐かしい思い出ですが、当時はそんな時間を仲間と過ごしていても何か心のどこかに空しさを覚えていました、、、幸いボクはこれではいけない、と思いガラッと生活と行動を変えました。そして人生は大きく変わりました。
情熱はある、そして真面目に頑張って行きたい、でもモーレツに努力し突っ走り続けるのはむいていない、でも無理をしていて気の休まる事の無い今の生活にチョット疲れてしまったという方は要注意です。頑張るのは大事ですが、何に自分は頑張っているのかをゆっくり考えるのも大事だと思います。
自分の弱点を隠す事に頑張って、それに成功してしまうといずれ燃え尽きて消耗しきってしまう可能性があります、燃え尽きる=ノイローゼ、うつ、廃人、、、。自分のペースでゆっくりと気の休まる時間を持って、自分の人生とは一体何か?在るがままの自分を否定していないか?他人の評価を気にしすぎていないか?等々を振り返ってみるのも無意味ではないと思います。周りにいる人等に自分の心を打ち明けてみるのも本当の自分を見つけるきっかけになるかもしれません。
どんな人でも自分に合った、そして喜びを感じる事が出来る生き方があると思います。それを見つけるには何が好きなのか?と同時に何が不満で嫌なのか?好き、やりたいと思っているを事の背景には隠れた別の動機があるんじゃないか?等を知るのが大切なポイントになります。
嫌な事があるのならどうしてそれが嫌で不満につながっているのか?等を素直に自分の心を見つめていつの時点からそうなのか?そうなった原因は何なのだろうか?その時親や周りとの関わりはどうだったのか?等を明確にして、これまでの価値観や体験、状況、全てのしがらみ等を冷静にゆっくりと見つめ直してみると、これまで気が付かなかった面が見えてくるかもしれません。
今から10年前、自分はどうなると想像していましたか?で、今どうなっていますか?
人生は本当に色々です。そして突然の出会いなどでガラッと方向が変わってしまうこともあります。でも何をするにしても、今自分がやろうとしている事、或いは今やっている事が心地よく、これからも情熱を持っていけるか?と言う所が大事じゃないでしょうか?。
つまり、やっている事に苦痛がなく、思わず時間を忘れて夢中になってしまう、これまでの経験や子供の頃を思い出してみれば一つや二つ何方でも思い当たるんじゃないでしょうか?それがいったい何なのか?そこがポイントです。
若ければ若いほど、目先の事に気を捕らわれ、今過ごしている人生はたった一度きりという事を忘れてしまったりします。そう、ボク達は必ずいつか死にます。この世から物質的な存在が消えてなくなってしまうんです。どんなにお金を掛けて健康に気をつけてもいつか必ず死にます。
これは絶対に避けられない事実です。そしてそれがいつかは誰にも分かりませんし遅かれ早かれいつか必ず来ます。今している事が何であろうと、どんな人であろうと運命は平等にやってきます。今こうして過ごしている間にも刻々と私達の残された時間は短くなっています。そして年を重ねるごとにその時間の速さを実感しているのはボクだけじゃないでしょう。又最後の日、死が突然やってくる事もあります。何をやっていたとしても死ねばそこで現世の活動は終了です。
それはそうだし分かってはいるんだけど、実感が湧かないし、やらなきゃいけない(と思い込んでいる)事があるからその他の事は後回し、という人は多いでしょう。そうやってどんどん本当にやりたい事を先送りにして結局殆ど何もやらないまま「しまった!!!」と気が付いた時には手遅れの状況になっています。そこで、、、
もし、仮に命が後1年だけとはっきり分かっているとしたら残りの時間をどう過ごしますか?やりたい事全ては出来ませんので、選択する事になります。そこでやる事が本当にやりたい事、つまり優先順位が高いものなんです。
ボクが言いたいのは、普段は後回しにしがちの、その優先順位の高いやりたい事をやる為の人生を一日でも早く手に入れませんか?そしてその準備を今から始めませんか?という事なんです。もしそれまで本当の心を抑圧し、何かを犠牲にしてきて、これからもそれを続けるなら将来きっと後悔することになります。
ボク自身、確かにお金は持っているけれど心が歪んでしまった孤独な人を見るたびに、お金儲けや仕事だけを最優先に考え、その他の事を犠牲にして間違った事に努力してしまうとこうなってしまうんだ!と自分を戒めながら日々自分の進む道を模索しています。
方向性を間違うと、たとえお金持ちになって財産を残したとしても惨めで孤独な生涯を送ることになってしまう、実に皮肉です。お金だけの希薄な人間関係では心の安らぎは生まれません。その時にこんなはずではなかった、、、と嘆いても遅いんですね、、、特に今の日本を見ているとそう思います。
皆さんに考えて欲しいのは物質的には豊かな今の日本で、いったいどれだけの人が健康的で、心が充実した豊かな生活送っているでしょうか?という事なんです。もし本当の心の感情を抑圧し、何かを犠牲にしているとしたらそれは本当に幸せでしょうか?
自分の本当の感情とは別に、お金になるから、儲かるからと始めた商売や仕事で喜びを感じられるのか、、言い換えればいつまで本当に望んでいる事を抑圧し続けるのでしょうか、、、たった一度の人生、それでいいんですか??って事なんです。でも中には普段の生活で心が満たされず不満なのに、そこにしがみついて離れようとしない人がいます。
なぜそうなってしまうのか?最初はよく分かりませんでしたが、色々な本を読んだり、セミナーを聞いて分かった事は、そういう人は現状には不満なのにそこから脱却しよう、或いは望んでいるものを手に入れよう、という具体的な努力や行動は自分からはあまりしないで、他の人等が何か自分にしてくれるのを期待して待っているらしいんです。
見方を換えると、そういった人は自尊心が強くて、自分は特別の存在だから他の人は自分の望む事をしてくれて当然で、特別に扱われるべきだと無意識に思ってしまっている様です。でも現実はそうならないから不公平だと不満なんです。「なるほど、これはボク自身にもあるかもしれない」そう思うと、人間の心理にも興味が出てきます。
不満なのに自分からは行動しない人は本当の自分を抑圧して隠しています。他人の評価がとても気になるので、もし本当の自分をだして非難されたり、否定されるのはとても怖くて耐え難い事なので、本当の自分では勝負しようとしません。感情を抑圧して無い物と思い込み虚勢を張っているので結果的に自分に嘘をついてしまうんです。そして結果が悪いのは自分ではなく他人等他のモノのせいだといつも不満を持つようになります。
本当の自分を受け入れず、本当の自分の心が欲している物を無視して、別の物で埋めようとする悪循環に陥ってしまいます。すると他人の幸福が妬ましく見え、それらと比べ、どうして私だけ?、、、と生きているのがむなしくなる、すると欲望が肥大化してしまい、その感情を抑える事が出来なくなってしまう。
それがひどくなると他人に対する敵意や憎しみ、妬み、自分に対する依存症や精神障害、無気力、うつ状態、最後には自殺願望まで持つ様になります。間違った事にエネルギーを使ってしまっているんです。まるで基礎がしっかりしていない上にどんどんビルを建てているようなものです。崩壊するのは時間の問題です。
ボクはこういった人を決して否定しているわけではありません、むしろボクは多かれ少なかれそういった部分を持った人間の一人でしたし、今でもまだ多少はあるかもしれません。だからより完成した人間に少しでも近づきたいと思っています。でも人は神様じゃないですし、だれだって否定的な感情はあります。だけど健康的で、普段の生活を自分らしく生きている人はそれを上手に発散し溜め込む事はしないんです。
でも本当の自分を抑圧している人は、理性でそういった感情を押さえ込んでどんどん心の奥底に溜め込んでしまうんです。そして溜め込まれた感情は屈折した形で出てきます。これはホントに問題です。
今なんでこれ程経済的に豊かな日本なのに自殺者や引きこもり、いじめや虐待等人の感情や心に起因する問題が多いのでしょうか?はた目からは経済的に豊かで幸せそうに見える人たちが実は内面でものすごくジレンマに悩まされ、多くの悩みを抱えているのに心の底から信頼できる人が居ない為誰にも本音を打ち明けられず、一人で苦しんでいる人も多かったりします。
逆に、経済的には豊かとはいえないものの人々と心通わせ、笑いが絶えず、自分に正直に生きている人達をみると本当の幸せとは一体何なのかを考えさせられます。自分自身で体験した事を思い出せば、そういった人々との暖かく心が通った交流等の体験が人生を生きる上での原動力といえますし、ボクはこれからもそういった時間をより多く手に入れたいと願っています。
でも、心に問題を抱えていて、本当に望んでいるものを手にいれようとしない人達でも人生を変えるチャンスはあるんです。普段の生活ではありえない、予想を越えた厳しい状況(災害や大事故等)に出くわしたりしてそれを他人と共有し、乗り越える経験をするとそれまでの見方から全く変わってしまう事はよくあります。
又思いもかけないような人との出会いでこれまでの自分が崩れ去り生き方がガラッと変わる事もあります。住む環境を変えることで変わることもあります。自分では打ち破れなかった殻が、何かをきっかけに破れて結果的に本当の自分が表に出てしまったわけです。引きこもりの子達に良く見られる現象です。
一度表に出てしまえば後は崖から転げ落ちるようにどんどん自分を表に出し、望んでいる方向に進んでいけるでしょう。そしてそういった小さなきっかけはあちこちに転がっています。でも盲目的に日々を暮らしているとそれが中々見えないんです。希望は人を見捨てませんが、人々が希望を手放してしまうんです、とは良く言ったモンです。正にその通りですね。
日本というとても豊かな国に暮らすボク達の置かれている状況を改めて見直すと、如何に物質的に恵まれているのかが分かります。後は自分次第でいくらでも幸福になる可能性がある事に気が付きます。自分に正直に素直に行動するだけなんです。
けちな人なら自分はケチだ!と認めちゃうんです。ぐっと楽になります。臆病なら臆病でいいじゃないですか、今が不満だから妬むんです、不満の根本を探っていきましょう。怒りをぶちまけたい人には勇気を持ってぶちまけましょう。そうする方が意外とより良い関係になれる場合があります。
時に怒りは時代を動かす大切な感情です、嫌いなのに好きな振りをするのはやめるべきです。そして自分を知り尽くしていない人に振り回される必要は無いんです。他人の評価や築いた財産なんて死に直面するような絶望の淵に立った時には全く意味の無いことに気が付きます。
大それた事をする必要はないんです。ボク達は時々どうでも良い小さな事に拘ってしまう場合がありますが、とにかく他愛も無い小さな事にとらわれず、他人の目を気にせず、あるがままの自分で、自分の心を抑圧せず、本当に心が望んでいる事を始めましょうという事なんです。そうすればきっと手ごたえのある充実した生活が実感できるようになると思う訳です。
小さな幸福は身の回りに沢山ありますし、捉え方次第では何でもない様なことでも、とても幸せに思えます。ただ自分に嘘をついている人にはそれが見えなくなってしまっているんです。これまで当然だったものが突然無くなって始めてその有難さが分かり、それまでのことを後悔したりします。後悔してから動くのか、後悔する前に動くのかは人それぞれですが、行動を起こすのに遅過ぎるということはありません。
でも若い時は世の中を良く知らず、限られた世界観や価値観である意味どこか妥協して小さな世界に住んでしまいがちです。収入や今ある物や生活を維持する為だけに仕事をして、不満はあるけれどそんな日々暮らしていく内にそれが確立されてしまい、否定的な感情や周りの雑音、誘惑等に負けてずるずると流されていったりします。ボク自身もそういった事で悩んでいた時期もありましたし、気持ちはよく分かります。(^^;)
そうではあっても、どんな人でも心の奥底ではより自由に、好きな事をして収入を得たいと願っているんじゃないでしょうか?でも殆どの人はその為の行動は起こさず、いつかはなんて思っているうちに年を重ね、日々の暮らしに追われて夢を見失っていってしまっています。そしてある日気が付くのです。あの時ああすればよかった、あれをやっておきたかった、、、等々。
でもそれに気が付いた時には皮肉にも人生の時間はそれ程残っていません、、、そしてその最後の日はある日突然やってきたりします。これでは悔やんでも悔やみきれません。
そうならない為にもまずは、本当にやりたい事、手に入れたいものの優先順位をつけて、その為の小さな目標を決めて少しづつ始める事が大事だと思います。そして苦労も喜びも一緒に分かち合えるようなよりよい人間関係を築く為にあるがままの自分を受け入れて、自分に正直に、そしてよりよい時間を少しでも多く持てるよう今から行動を始める事をお勧めします。理想は好きで、熱中できる事を仕事にする事ですが、好きな事、熱中できる事をする為にそれとは別に、これまでの自分の経験を生かした何かを始めるのも一つの手です。でもあくまでメインは本当に心が望んでいる事を手に入れる為です。
そうは言っても若い人の中には自分のやりたい事が見つからない、将来の希望が持てないと悩んでいる人もいるでしょう。でも現代のような複雑な社会環境に暮らしていれば当然といえば当然です。こういう悩みを持った人は恐らく人生の中での絶対的な経験不足の場合が多いので、とにかく何らかの行動を起こして欲しいです。そして色々な人と関わりあうべきです。
行動すれば何かが起きますし、誰かと出会います、そうすれば何かか変化します。行動せずにあれこれ頭の中だけで考えてもなかなか答えは見つかりません。なぜなら経験量が少ないのでいったい何に一番喜びを感じ、自分に向いているのかが分からないわけですから。世の中には自分の想像を超えたものが沢山あり、それらの事を目の当たりにすると想像を遥かに超えた感動を覚えます。とにかく、多くの自然や人と交わって自分にある五感をフルに働かせて感性を磨くと喜びは倍増しますし、悲しみは半減します。
人生の中での多くの実体験や思い出こそお金で買うことの出来ない貴重な物の一つではないでしょうか?でもその貴重な体験や知識、生き方や技術を自分の人生、或いは他の人の人生、社会等に生かしきれていないとしたらこれはもったいないと思います。
年を重ねた人は長い人生の中では沢山の浮き沈みを経験し、楽しい事、辛い事を乗り越えて今に至っているわけです。経験の少ない若い人にとっては、人生の先輩のこういった経験の一つ一つが価値のある財産じゃないでしょうか?例えば年を取ってからも好きなことに情熱をささげ、それを今でも貫いて楽しく充実した人生を送っている人の話や体験談等はお金を払ってでも聞いてみたい物です。
一方では仕事を一生懸命やってきたものの、仕事熱心のあまり定年退職等を迎える頃には家族関係が冷え切ってしまい希薄な人間関係に悩み、人生に挫折してしまったという人もいるでしょう。これはそれ自体は残念で辛い体験ではありますが、そういった話はそうならない為にの反面教師とてしての価値があると思います。失敗から学ぶ事は多いのです。自分自身が持っている体験等をどう生かすのかはボク達次第なんです。
仕事以外にやってこなかった人が定年後に社会と関わらなくなり、必要性を感じられず急に老け込んでしまうという事は少なくないかもしれません。特に家から出る必要がなくなり、他人と関わる時間が少なくなると孤独感がさらに心を打ちのめしてしまうかもしれません。
それではご本人はもちろん、社会にとっても望ましい事ではないですし、人にはそれぞれ違った役割や得意分野が必ずあると思いますから、自分には何もないと思い込んでいても実は他の人が必要としているものを持っている事があります。とにかく今は仕事等が忙しいとしても一人になれる時間を作り、何にも邪魔されずゆっくりと考える時間を持つことをお薦めします。
そして生きている中で喜びが大きい事の一つは、自分のしている事が結果的に人にも(特に自分の中で重要な特定の人に)認められ、感謝され、尊敬される等、心が豊かになるような喜びです。こういった喜びはモノを買った時など物質的な満足感と違い、長持ちしますのでいつまでたっても幸せな気分が続きますし、明日への活力にもなります。
でも、何度も言いますがやっぱり一番大事なのは、自分がしている事が好きか?と言う部分です。本当は好きじゃないけど他人に喜ばれるから何かをするというのはどこか無理があります。100%好き、或いは嫌いというのは殆どありえませんし、好きな事でも、時には面倒な事もあります。多少嫌な事もあるけど絶対に手を省かないし、やっぱり楽しい、そんなものがホントに好きな事で、それを人生の中で見つけるべきじゃないでしょうか?
満足いく人生とは豪邸を建てることでもなければ、総理大臣になる事でもない、自分の心と体の健康を保ち、自分が好きな事を出来る環境を作り、喜びを分かち合い心許せる家族や仲間を作る、これに尽きるんじゃないでしょうか?そしてそれが他人の役に立ち、人に喜ばれればより満足度が高まるでしょう。これは誰にでも可能です。
見方さえちょっと変えて、自分の経験などを生かしてそれが人の役に立てばとても嬉しい事です。好きなことして、しかも人に認められ喜ばれる事で食べて行けるとしたらどんなにすばらしいでしょう!自分の心が望んでいる事をやるのに加えて、それで人に感謝されるようなことが出来ると人生本当に楽しくなると思います!とにかく始めてみることです。人生はそれ程待っていてはくれませんから。
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