かたわらに立って、つまさき立ちをして背伸びをし、Aの耳元に口を寄せた。 是什么意思

《方丈记》 (第三段)わが身父方の祖母の家をつたへて久しく
《方丈记》 (第三段)わが身父方の祖母の家をつたへて久しく
  わが身、父方の祖母の家をつたへて、久しくかの所に住む。其後、縁かけて、身おとろへ、しのぶかたがたしげかりしかど、つひに 屋とヾむる事を得ず。三十あまりにして、更にわが心と、一の菴をむすぶ。是をありしすまひにならぶるに、十分が一也。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるたづきなし。竹を柱として車をやどせり。雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波のおそれもさわがし。すべて、あられぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませる事、三十余年也。其間、をりをりのたがひめ、おのづからみじかき運をさとりぬ。すなはち、五十の春を迎へて、家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執を留めん。むなしく大原山の雲にふして、又五かへりの春秋をなん経にけ る。こゝに、六十の露消えがたに及びて、更に、末葉の宿りを結べる事あり。いはゞ、旅人の一夜の宿をつくり、老たる蚕の繭を営むがごとし。是を中ごろのすみかにならぶれば、又、百分が一に及ばず。とかくいふほどに、齢は歳々にたかく、栖はをりをりにせばし。その家のありさま、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、高さは七尺がうちなり。所を思ひ定めざるがゆゑに、地を占めてつくらず。土居を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねを掛けたり。若、心にかなはぬ事あらば、やすくほかへ移さむがためなり。その、あらためつくる事、いくばくのわづらひかある。積むところわづかに二両、車の力を報ふほかには、さらに他の用途いらず。いま、日野山の奥に跡をかくしてのち、東に三尺余の庇をさして、柴折りくぶるよすがとす。南、竹の簀子を敷き、その西に閼伽棚をつくり、北によせて障子をへだてて、阿弥陀の絵像を安置し、そばに普賢をかき、まへに法花経をおけり。東のきはに蕨のほどろを敷きて、夜の床とす。西南に竹のつり棚を構へて、黒き皮篭三合をおけり。すなはち、和歌?管絃?往生要集ごときの抄物を入れたり。かたはらに琴?琵琶おのおの一張をたつ。いはゆる、をり琴?つぎ琵琶これ也。かりのいほりのありやう、かくの事し 。その所のさまをいはば、南にかけひあり。岩を立てて、水をためたり。林の木ちかければ、つま木をひろふに乏しからず。名をと山といふ。まさきのかづら、あと埋めり。谷しげけれど、西はれたり。観念のたより、なきしにもあらず。春は藤波を見る。紫雲のごとくして、西方に匂ふ。夏は郭公を聞く。語らふごとに、死出の山路を契る。秋はひぐらしの声、耳に満り。うつせみの世をかなしむほど聞こゆ。冬は雪をあはれぶ。積り消ゆるさま、罪障にたとへつべし。若、念仏物うく、読経まめならぬ時は、みづから休み、身づからおこたる。さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、独り居れば、口業ををさめつべし。必ず禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ何につけてかやぶらん。若、あとの白波にこの身を寄する朝には、岡の屋にゆきかふ船をながめて、満沙弥が風情を盗み、もし桂の風、葉を鳴らす夕には尋陽のえを思ひやりて、源都督のおこなひをならふ。若、余興あれば、しばしば松のひゞきに秋風楽をたぐへ、水のおとに流泉の曲をあやつる。芸はこれつたなけれども、人の耳をよろこばしめむとにはあらず。ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから情をやしなふばかりなり 。又、ふもとに一の柴のいほりあり。すなはち、この山守が居る所なり。かしこに小童あり。ときどき来たりてあひとぶらふ。若、つれづれなる時は、これを友として遊行す。かれは十歳、これは六十、そのよはひ、ことのほかなれど、心をなぐさむること、これ同じ。或は茅花を抜き、岩梨をとり、零余子をもり、芹をつむ。或はすそわの田居にいたりて、落穂を拾ひて穂組をつくる 。若、うらゝかなれば、峰によぢのぼりて、はるかにふるさとの空をのぞみ、木幡山?伏見の里?鳥羽?羽束師を見る。勝地は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし。歩みわづらひなく、心遠くいたるときは、これより峰つゞき、炭山をこえ、笠取を過ぎて、或は石間にまうで、石山ををがむ。若はまた、粟津の原を分けつゝ、蝉歌の翁があとをとぶらひ、田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづぬ。かへるさには、をりにつけつゝ、桜を狩り、紅葉をもとめ、わらびを折り、木の実をひろひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づととす 。若、夜しづかなれば、窓の月に故人をしのび、猿のこゑに袖をうるほす。くさむらの蛍は、遠く槙の 島のかゞり火にまがひ、あか月の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり。山鳥のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ、峰の鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る。或はまた、埋み火をかきおこして、老のねざめの友とす。おそろしき山ならねば、ふくろふの声をあはれむにつけても、山中の景気、をりにつけて、尽くる事なし。いはむや、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず。、父方の祖母の家をつたへて、久しくかの所に住む:長明は父の死後、祖父季継の妻の家に引き取られたといわれている。けて:「縁欠けて<えんかけて>」で祖母の家となぜか縁が切れてしまったのだが、その理由は知られていない。かたがたしげかりしかど:この家については数多い思いを持っているのだが、の意。に屋とヾむる事を得ず:その家に留まることができなかった。あまりにして、更にわが心と、一の菴をむすぶ:30歳過ぎとなって、あらためて自らの判断で家一軒を建てた。すまひ:祖母の家のこと。それと比べると自分が作った家は10分の1の大きさに過ぎなかった。ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず:「居屋<いや」>は生活に必要な居所で、寝室や台所などしかない家で、ちゃんとした家を作るにはいたらなかった。建つるたづきなし:門を作るだけのものが無かった。門を作るのは単にお金があればというのみならず、身分も無いと作れなかった。この時期の鴨長明にはその両方が無かったのである。柱として車をやどせり:粗末な車庫を作った。 なにゆえに牛車が必要だったのか?のおそれもさわがし:「白波」は白波五人男の白波で盗賊の別称。語源は紅巾の乱の残党共が白波賊<はくはぞく>を名乗ったのがはじまりという。ここでは、 川近くの水難と語呂を合わせている。ぬ世を念じ過しつゝ:住みづらい世間に耐え忍びながら生きてきて。のたがひめ:「たがひめ」は「違い目」で、物事の違っているところ、意に反するところ、の意。 作者がしばしば体験する不運のこと。大原山の雲にふして:「大原」は京都府左京区の大原を指す。ここに5年住んでいたというのだが詳細は不明。の宿りを結べる事あり:「末葉の宿り<すえはのやどり>」とは、本書の主題方丈の庵を指す。はわづかに方丈:「方丈」は1丈(10尺)四方で、4畳半を少し広くした面積に相当する。思ひ定めざるがゆゑに、地を占めてつくらず:「地を占める」とは土地を私有化すること。ここに定住しようというのではないので、土地を購入することはしていないというのだ。を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねを掛けたり:「土居<つちい>」は土台だが、石で作った頑丈な土台ではなく木組みの土台らしい。屋根には簡単な覆いをかけただけ。柱や壁はすべてカスガイでとめた。すぐに解体して再利用するための算段である。つくる事、いくばくのわづらひかある:ここを引っ越して、また改めて「方丈」を作るとしても大したことは無いのである。ところわづかに二両:牛車でたった二両分の家財しかない。力を報ふほかには、さらに他の用途いらず:車賃を払う以外には何の出費もない。山の奥に跡をかくしてのち:京都 府宇治市日野に方丈庵を作った。ここは、親鸞が出、後には足利義政の妻、天下の悪妻?日野富子が生れた日野氏の勢力範囲であった。をつくり:<あかだな>と読む。仏壇の供え物を置くための棚のこと。ほどろを敷きて:伸びて葉を開いた蕨を乾燥させたもの。これをベッドの材料とした。皮篭三合をおけり:<くろきかわごさんごうをおけり>。黒い皮製の行李を3個置いた。これらには、本類を入れたのである。琴?つぎ琵琶これ也:  いずれも分解できて持ち運びのしやすい琴と琵琶。木をひろふに乏しからず:「つま木」とは「爪木」で薪にする木の枝。庵の裏手は山なので薪に不自由はしなかった。のたより、なきしにもあらず:「観念」とは浄土三部経の一つ観無量寿経にある観法のひとつ 。ここは谷はうっそうとしてはいるが、西の方角に夕日がよく見えるので、これを見ながら西方浄土のことを想う日観想が可能だというのである。と山といふ:その名 は「外山」。諸本には「名をゝとわ山(音羽山)といふ」もある。ふごとに、死出の山路を契る:夏に郭公の声を聞くたびに死出の旅路が約束されているように さえ思う。郭公はあの世への案内の鳥だという言い伝えがあった。禁戒を守るとしもなくとも、境界なければ何につけてかやぶらん:一生懸命禁を守っているというのではないが、破るべき境が無いのだから、禁を犯すことも無いのである。消ゆるさま、罪障にたとへつべし:降っては積もり降っては積もる雪を見ていると、罪障を積み重ねていく人の姿にたとえられよう。白波にこの身を寄する朝には:「世の中を何に譬えむ朝ぼらけこぎ行く舟の跡の白浪」(満沙弥『拾遺集』)から引用。次に続く「岡の屋」(京都市伏見区の湿地帯を干拓した巨椋池)に向かう船を引用するための気取った文章。のえを思ひやりて:<しんよう>は、中国江西省九江を流れる、揚子江に注ぐ川。白楽天の詩を思い出して、の意。のおこなひをならふ:「源都督」は源経信といって鴨長明の歌の師匠俊惠の祖父で琵琶の名手で歌人。この人の何をならうのかは歌なのか漢詩なのか琵琶なのかが不明。ひゞきに秋風楽をたぐへ:松になる風の音に合せて秋風楽の曲を奏でた。秋風楽は有名な雅楽曲。おとに流泉の曲をあやつる:「流泉の曲」は琵琶の秘曲。これを山の滝音に和して奏でる。を抜き:<つばな>とは、チガヤのこと。梅雨明けの頃に穂綿が飛ぶ 。:ツツジ科の常緑小低木。山地に生える。茎は地をはい、葉は長楕円形。早春、淡紅色で釣鐘形の花が数個集まって咲く。実は扁球形で、夏に白く熟し、食べられる。(『大字林』):<ぬかご、または、むかご>。山芋や百合などのように葉の付け根にできる肉厚の芽。地上に落ちるとここから発芽する。山芋などではこれが食用になる。の田居にいたりて:「すそわの田居」とは山すその田んぼのこと。山?伏見の里?鳥羽?羽束師:<こばたやま?ふしみのさと?とば?はつかし>はすべて方丈の庵から西に見える景色。は主なければ、心をなぐさむるにさはりなし:景色に持ち主は無いのでこれを見て心を慰めるに何のさわりも無い。?笠取?石間?石山:宇治?大津などの山々 。の翁があとをとぶらひ:蝉丸。平安前期の伝説的歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつざね)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第四皇子とも伝えられる。盲目で琵琶に長じ、逢坂(おうさか)山に住んで源博雅(みなもとのひろまさ)に秘曲を授けたという。生没年未詳。その墓は谷を隔てて逢坂山の関の明神であった。:田上山から瀬田川に流れる川。むらの蛍は、遠く槙の島のかゞり火にまがひ:「鵜舟をばかがりも知らずいでにけり蛍とびかふ槙の島人」(『広言集』)を引用。の雨は、おのづから木の葉吹くあらしに似たり:「神無月ねざめに聞けば山里の嵐の声は木の葉なりけり」(『後拾遺集』) 。大夫が墓をたづぬ:奈良後期または平安初期の伝説的歌人。三十六歌仙の一人。古今集の真名序にその名がみえる。(『大字林』より)のほろと鳴くを聞きても、父か母かとうたがひ:「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(未詳)を引用。鹿の近く馴れたるにつけても、世に遠ざかるほどを知る:「山深み馴るゝかせぎのけ近きに世に遠ざかるほどを知らるゝ」(『山家集』)を引用。ここに「かせぎ」は鹿のこと。景気、をりにつけて、尽くる事なし:ここ日野の山中の景色は、四季折々によってその趣の尽きることは無い 。や、深く思ひ、深く知らむ人のためには、これにしも限るべからず:まして、こういうことを深く思っていて、よく理解している人ならば、 ここの自然の趣の深さはこれ以上のものであろう。これは、皮肉か本気か?? & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & & && ちちかたのおおばのいえをつたえて、 ひさしくかのところにすむ。そののちえんかけてみおとろえ、しのぶかたがたしげかりしかど、ついにやとどむることをえず。みそじあまりにして、さらにわがこころと、 いちのいおりをむすぶ。これをありしすまいにならぶるに、じゅうぶがいつなり。いやばかりをかまえて、はかばかしくやをつくるにおよばず。わずかについじをつけりといえども、かどをたつるたつきなし。たけをはしらとして、くるまをやどせり。ゆきふりかぜふくごとに、あやうからずしもあらず。ところ、かわらちかければ、みずのなんもふかく、しらなみのおそれもさわがし。すべてあられぬよをねんじすぐしつつ、こころをなやませること、30よねんなり。そのあいだおりおりのたがいめ、おのずからみじかきうんをさとりぬ。すなわち、いそじのはるをむかえて、いえをいでてよをそむけり。もとよりさいしなければ、すてがたきよすがもなし。みにかんろくあらず、なににつけてかしゅうをとどめん。むなしくおおはらやまのくもにふして、またいつかえりのしゅんじゅうをなんへにける。ここにむそじのつゆきえがたにおよびて、さらにすえばのやどりをむすべることあり。いわばたびびとのひとよのやどをつくり、おいたるかいこのまゆをいとなむがごとし。これをなかごろのすみかにならぶれば、またひゃくぶがいちにおよばず。とかくいうほどに、よわいはとしどしにたかく、すみかはおりおりにせばし。そのいえのありさま、よのつねにもにず、ひろさはわずかにほうじょう、たかさは7しゃくがうちなり。ところをおもいさだめざるがゆえに、ちをしめてつくらず。つちいをくみ、うちおおいをふきて、つぎめごとにかけがねをかけたり。もしこころにかなわぬことあらば、やすくほかへうつさんがためなり。そのあらため つくること、いくばくのわずらいかある。つむところわずかに2りょう、くるまのちからをむくうほかには、さらにたのようとういらず。いま、ひのやまのおくにあとをかくしてのち、ひんがしに3じゃくあまりのひさしをさして、しばおりくぶるよすがとす。みなみ、たけのすのこをしき、そのにしにあかだなをつくり、きたによせて、しょうじをへだててあみだのえぞうをあんちし、そばにふげんをかき、 まえにほけきょうをおけり。ひがしのきわにはわらびのほとろをしきて、よるのゆかとす。にしみなみにたけのつりだなをかまえて、くろきかわご3ごうをおけり。すなわち、わか?かんげん?おうじょうようしゅうごときしょうもつをいれたり。かたわらにこと、びわおのおのいっちょうをたつ。いわゆるおりごと、つぎびわこれなり。かりのいおりのありよう、かくのごとし。そのところのさまをいわば、みなみにかけひあり。いわをたててみずをためたり。はやしのきちかければ、つまぎをひろうにとぼしからず。なをとやまという。まさきのかずらあとうずめり。たにしげけれど 、にしはれたり。かんねんのたより、なきにしもあらず。はるはふじなみをみる。しうんのごとくして、さいほうににおう。なつはほととぎすをきく。かたらうごとに、しでのやまじをちぎる。あきはひぐらしのこえ 、みみにみてり。うつせみのよをかなしむほどきこゆ。ふゆはゆきをあわれぶ。つもりきゆるさま、ざいしょうにたとえつべし。もしねんぶつものうく、どきょうまめならぬときは、みずからやすみ、みずからおこたる。さまたぐるひともなく、またはずべきひともなし。ことさらにむごんをせざれども、ひとりおれば、くごうをおさめつべし。かならずきんかいをまもるとしもなくとも、きょうがいなければなににつけてかやぶらん。もし 、あとのしらなみに、このみをよするあしたには、おかのやにゆきかうふねをながめて、まんしゃみがふぜいをぬすみ、もしかつらのかぜ、はをならすゆうべには、しんようのえをおもいやりて、げんととくのおこないをならう。もし 、よきょうあれば、しばしばまつのひびきにしゅうふうらくをたぐえ、みずのおとにりゅうせんのきょくあやつる。げいはこれつたなけれども、ひとのみみをよろこばしめんとにはあらず。ひとりしらべ、ひとりえいじて、みずからこころをやしなうばかりなり。また、ふもとにひとつのしばのいおりあり。すなわちこのやまもりがおるところなり。かしこにこわらわあり。ときどききたりてあいとぶらう。もし、つれづれなるときは、これをともとしてゆぎょうす。かれは10さい、これは むそじ、そのよわい、ことのほかなれど、こころをなぐさむること、これおなじ。あるいはつばなをぬき、いわなしをとり、ぬかごをもり、せりをつむ。あるいはすそわのたいにいたりて、おちぼをひろいて 、ほぐみをつくる。もし、うららかなれば、みねによじのぼりて、はるかにふるさとのそらをのぞみ、こはたやま、ふしみのさと、とば、はつかしをみる。しょうちはぬしなければ、こころをなぐさむるにさわりなし。あゆみわずらいなく、こころとおくいたるときは、これよりみねつづき、すみやまをこえ、かさとりをすぎて、あるいはいわまにもうで、あるいはいしやまをおがむ。もしはまた 、あわづのはらをわけつつ、せみうたのおきながあとをとぶらい、たなかみがわをわたりて、さるまるもうちぎみがはかをたずぬ。かえるさには、おりにつけつつ、さくらをかり、もみじをもとめ、わらびをおり、このみをひろいて、かつはほとけにたてまつり、かつはいえづととす。もし、よるしずかなれば、まどのつきにこじんをしのび、さるのこえにそでをうるおす。くさむらのほたるはとおくまきのしまのかがりびにまがい、あかつきのあめはおのずからこのはふくあらしににたり。やまどりのほろとなくをききても、ちちかははかとうたがい、みねのかせぎのちかくなれたるにつけても、よにとおざかるほどをしる。あるいはまた、うずみびをかきおこして、おいのねざめのともとす。おそろしきやまならねば、ふくろうのこえをあわれむにつけても、さんちゅうのけいき、おりにつけてつくることなし。いわんや、ふかくおもい、ふかくしらんひとのためには、これにしもかぎるべからず。現代語訳私は、父方の祖母の家を継ぎ、長く祖母の家に住んだ。その後、 段々に縁が薄くなり、私の立場も弱くなって、偲ぶ人々も多く思い出多い家だったが、そこに住むことがかなわぬこととなり、30歳ごろ、よく考えて一つの庵を作 ることにした。これを以前の家と比べると、その広さは10分の1。居間だけの狭い家で、それ以上の大きな家を作ることはできなかった。わずかに、土塀を作りはしたが、門を作るまでの活計が無かった。竹を柱にした車入れ を作ったが、場所が鴨川に近かったので、水害の心配もあったし、また盗賊の襲撃も不安であった。何事も、住みにくい世を耐え忍びながら生きてきて、30年。この間に無数のつまづきを経験して、身の不運を悟るには十分であった。こうして、50歳を迎えて、出家遁世した。もとより、妻子も無いのだから捨てる縁者 も無い。身に肩書きも無ければ、執着すべきものも無い。こうして、5年の歳月を大原山の雲の下で過ごしたのであった。さて、人生の終わりの60歳に近づいて、なお、余生を送る家を作ることとなった。これはまるで、旅人が一夜の宿を作るような愚かさであり、老いた蚕が繭を作るようなものなのである。しかし、これを先の家と比べてさえも百分の一にもならない小さなものだ。このように、私にとっては、歳を重ねるにつれて栖はどんどん小さくなっていったのである。この家の様子はといえば、世の常のものとは全く似ていない。広さはといえばわずかに方丈、高さは7尺ほど。ここに定住しようというのではないから土地は買わない。土台を組んで、屋根を葺き、柱の継ぎ目は掛け金で止めた。もし、ここが気に入らなければ、簡単に他所に移転するためである。移築するといっても、いかほどのわずらわしさも無い。牛車につむとしてもせいぜい2台分、その代金以外には必要なものは無い。こうして、日野山の奥に身を隠して、東側に三尺ほどのひさしを付け、そこを柴を燃やす場所とした。南側には、竹のすのこを敷き、その西側に閼伽棚を作り、北側には障子を隔てて阿彌陀の絵像を安置し、その側に普賢菩薩像を掛け、前には法華経を置いた。東の壁際に乾燥させた蕨を敷いて、寝床とした。西南の壁には竹の吊り棚をしつらえて、黒い皮行李を三つ置いた。これらの中には、歌集?楽書?往生要集などの抄物を納めた。部屋の隅には琴と琵琶、それぞれ一張を立てかけた。これらは、いわゆるおり琴であり、またつぎ琵琶という、あれである。仮の庵はかくの如くである。その周囲の様子について語れば、まず南に懸樋がある。岩を使って、水をためるようにした。林の木は手近にあるので、薪は豊富にある。名を外山という。『古今集』の「深山には霰降るらし外山なるまさきの葛色つきにけり」にあるようにまさきの葛が生い茂っている。谷はうっそうと樹木に覆われてはいるが、西の方角は開けている。それゆえ、西方浄土の照見を邪魔しない。春は藤の花に覆われる。浄土からの便りのように甘く匂う。夏は郭公の声を聞く。その声は、死出の旅路の道案内を語っているようだ。秋はひぐらし蝉の声を聞く。はかないこの世を愛しんでいるように鳴く。冬は雪を見る。その積もっては消え、消えては積もる雪は、そのまま私の人生の罪障に他ならない。もし、念仏にも飽きて、読経に身が入らないような気分の日には、これを休み、怠る。修行を妨げるような人がいない代わりに、怠っているのを見られては困る人もいない。修行としての無言を守るなどというのでなくても、話す相手がいないのだから、口業は守られている。懸命に戒律を守るなどとしなくても、破る べき境界が無いのだから、破ろうとしても破れはしない。舟の航跡をこの身のはかなさに寄せて思う朝には、巨椋池を行き交う舟を眺めて、満沙弥の歌「世の中を何に譬えむ朝ぼらけこぎ行く舟の跡の白波」の風情を味わい、楓の葉が風に揺れる夕べには、白楽天の『琵琶行』に詠まれた尋陽の江を想像して、源都督にならって琵琶を弾く。もし、興がのってきたらば、しばしば松の枝に吹く風の音に合せて、秋風楽を奏で、水の音に合せて流泉の曲を弾く。芸は拙いが、人の耳を楽しまそうというのではない、自分で演奏し、自分で詠じ、自分を慰めようというのだ。また、麓に一つの小屋がある。山守がいて、そこに子供がいる。時々、やって来る。もし、所在無い時には、彼を友として遊ぶ。彼は10歳、私は60歳。その年齢は大層離れているが、無聊を慰めることに支障は無い。或るときはちがやを抜き、岩梨を採り、零余子を集め、せりを摘む。また、或るときは山裾の田んぼに行って、落穂を拾って穂組みを作る。もし、うららかな日には、峰に登ってはるかに故郷の空を眺め、木幡山、鳥羽、羽束師を見る。景勝に持ち主は無いのだから、美しい景色を眺めるに支障は無い。歩くのに差障りが無い、遠出をしたくなったら、ここより峰づたいに炭山を越え、笠取山を過ぎ、岩間寺に詣でたり、石山寺にお参りする。或いはまた、粟津のまで歩を進めて、蝉丸の住居跡を訪れ、大戸川を越えて猿丸大夫の墓を訪れる。帰り道には、季節に応じて桜を見、紅葉を狩り、ワラビを採り、木の実を拾い、これを仏に供えたり、家への土産にしたりする。もし、夜がしずかなら、窓の月に故人を偲び、猿の声に涙を流す。叢の蛍は、遠くの槙島のかがり火と入り乱れ、暁の雨は木の葉に吹く嵐と似る。山鳥のほろほろと鳴く声を聞けば、父か母かと驚く。峰の鹿が馴れて近くまでやってくることからも、世間から離れた時間に驚く。ある時には、老いの目覚めに起こされたときには、埋火をかきおこしてこれを友とする。深山というわけではないので、ふくろうの声もしみじみと聞こえ、山中の興趣は、季節によって尽きることは無い。いわんや、自然の趣を深く思い、深く知ろうとする人には、私が思うよりもっと多くのものを感ずるはずだ。
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