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日本名家名篇-《奉教人の死》
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日本名家名篇-《奉教人の死》
& &&たとひ三百歳の齢よはひを保ち、楽しみ身に余ると云ふとも、未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、夢幻ゆめまぼろしの如し。―慶長訳 Guia do Pecador―善の道に立ち入りたらん人は、御教みをしへにこもる不可思議の甘味を覚ゆべし。―慶長訳 Imitatione Christi―一去さんぬる頃、日本長崎の「さんた?るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござつた。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏して居つたを、参詣の奉教人衆ほうけうにんしゆうが介抱し、それより伴天連ばてれんの憐みにて、寺中に養はれる事となつたげでござるが、何故かその身の素性すじやうを問へば、故郷ふるさとは「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩ともがらであらなんだ事だけは、手くびにかけた青玉あをだまの「こんたつ」(念珠)を見ても、知れたと申す。されば伴天連はじめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪しいものではござるまいとおぼされて、ねんごろに扶持して置かれたが、その信心の堅固なは、幼いにも似ず「すぺりおれす」(長老衆)が舌を捲くばかりであつたれば、一同も「ろおれんぞ」は天童の生れがはりであらうずなど申し、いづくの生れ、たれの子とも知れぬものを、無下むげにめでいつくしんで居つたげでござる。して又この「ろおれんぞ」は、顔かたちが玉のやうに清らかであつたに、声ざまも女のやうに優しかつたれば、一ひとしほ人々のあはれみを惹ひいたのでござらう。中でもこの国の「いるまん」に「しめおん」と申したは、「ろおれんぞ」を弟おととのやうにもてなし、「えけれしや」の出入りにも、必かならず仲よう手を組み合せて居つた。この「しめおん」は、元さる大名に仕へた、槍一すぢの家がらなものぢや。されば身のたけも抜群なに、性得しやうとくの剛力であつたに由つて、伴天連が「ぜんちよ」ばらの石瓦にうたるるを、防いで進ぜた事も、一度二度の沙汰ではごさない。それが「ろおれんぞ」と睦むつまじうするさまは、とんと鳩になづむ荒鷲のやうであつたとも申さうか。或は「ればのん」山の檜ひのきに、葡萄えびかづらが纏まとひついて、花咲いたやうであつたとも申さうず。さる程に三年あまりの年月は、流るるやうにすぎたに由つて、「ろおれんぞ」はやがて元服もすべき時節となつた。したがその頃怪しげな噂が伝はつたと申すは、「さんた?るちや」から遠からぬ町方の傘張の娘が、「ろおれんぞ」と親しうすると云ふ事ぢや。この傘張の翁おきなも天主の御教を奉ずる人故、娘ともども「えけれしや」へは参る慣ならはしであつたに、御祈の暇にも、娘は香炉をさげた「ろおれんぞ」の姿から、眼を離したと申す事がござない。まして「えけれしや」への出入りには、必かならず髪かたちを美しうして、「ろおれんぞ」のゐる方へ眼づかひをするが定ぢやうであつた。さればおのづと奉教人衆の人目にも止り、娘が行きずりに「ろおれんぞ」の足を踏んだと云ひ出すものもあれば、二人が艶書をとりかはすをしかと見とどけたと申すものも、出て来たげでござる。由つて伴天連にも、すて置かれず思おぼされたのでござらう。或日「ろおれんぞ」を召されて、白ひげを噛みながら、「その方、傘張の娘と兎角の噂ある由を聞いたが、よもやまことではあるまい。どうぢや」ともの優しう尋ねられた。したが「ろおれんぞ」は、唯ただ憂はしげに頭を振つて、「そのやうな事は一向に存じよう筈もござらぬ」と、涙声に繰返すばかり故、伴天達もさすがに我がを折られて、年配と云ひ、日頃の信心と云ひ、かうまで申すものに偽はあるまいと思されたげでござる。さて一応伴天連の疑うたがひは晴れてぢやが、「さんた?るちや」へ参る人々の間では、容易にとかうの沙汰が絶えさうもござない。されば兄弟同様にして居つた「しめおん」の気がかりは、又人一倍ぢや。始はかやうな淫みだらな事を、ものものしう詮議立てするが、おのれにも恥しうて、うちつけに尋ねようは元より、「ろおれんぞ」の顔さへまさかとは見られぬ程であつたが、或時「さんた?るちや」の後の庭で、「ろおれんぞ」へ宛てた娘の艶書を拾うたに由つて、人気ひとけない部屋にゐたを幸さいはひ、「ろおれんぞ」の前にその文をつきつけて、嚇おどしつ賺すかしつ、さまざまに問ひただいた。なれど「ろおれんぞ」は唯、美しい顔を赤らめて、「娘は私に心を寄せましたげでござれど、私は文を貰うたばかり、とんと口を利きいた事もござらぬ」と申す。なれど世間のそしりもある事でござれば、「しめおん」は猶なほも押して問ひ詰なじつたに、「ろおれんぞ」はわびしげな眼で、ぢつと相手を見つめたと思へば、「私はお主ぬしにさへ、嘘をつきさうな人間に見えるさうな」と、咎とがめるやうに云ひ放つて、とんと燕つばくろか何ぞのやうに、その儘つと部屋を立つて行つてしまうた。かう云はれて見れば、「しめおん」も己の疑深かつたのが恥しうもなつたに由つて、悄々すごすごその場を去らうとしたに、いきなり駈けこんで来たは、少年の「ろおれんぞ」ぢや。それが飛びつくやうに「しめおん」の頸うなじを抱くと、喘あへぐやうに「私が悪かつた。許して下されい」と囁ささやいて、こなたが一言ひとことも答へぬ間に、涙に濡れた顔を隠さう為か、相手をつきのけるやうに身を開いて、一散に又元来た方へ、走つて往いんでしまうたと申す。さればその「私が悪かつた」と囁いたのも、娘と密通したのが悪かつたと云ふのやら、或は「しめおん」につれなうしたのが悪かつたと云ふのやら、一円合点いちゑんがてんの致さうやうがなかつたとの事でござる。するとその後間もなう起つたのは、その傘張の娘が孕みごもつたと云ふ騒ぎぢや。しかも腹の子の父親は、「さんた?るちや」の「ろおれんぞ」ぢやと、正まさしう父の前で申したげでござる。されば傘張の翁は火のやうに憤いきどほつて、即刻伴天連のもとへ委細を訴へに参つた。かうなる上は「ろおれんぞ」も、かつふつ云ひ訳の致しやうがござない。その日の中に伴天連を始め、「いるまん」衆一同の談合に由つて、破門を申し渡される事になつた。元より破門の沙汰がある上は、伴天連の手もとをも追ひ払はれる事でござれば、糊口のよすがに困るのも目前ぢや。したがかやうな罪人を、この儘「さんた?るちや」に止めて置いては、御主おんあるじの「ぐろおりや」(栄光)にも関かかはる事ゆゑ、日頃親しう致いた人々も、涙をのんで「ろおれんぞ」を追ひ払つたと申す事でござる。その中でも哀れをとどめたは、兄弟のやうにして居つた「しめおん」の身の上ぢや。これは「ろおれんぞ」が追ひ出されると云ふ悲しさよりも、「ろおれんぞ」に欺かれたと云ふ腹立たしさが一倍故、あのいたいけな少年が、折からの凩こがらしが吹く中へ、しをしをと戸口を出かかつたに、傍から拳こぶしをふるうて、したたかその美しい顔を打つた。「ろおれんぞ」は剛力に打たれたに由つて、思はずそこへ倒れたが、やがて起きあがると、涙ぐんだ眼で、空を仰ぎながら、「御主も許させ給へ。『しめおん』は、己おのが仕業もわきまへぬものでござる」と、わななく声で祈つたと申す事ぢや。「しめおん」もこれには気が挫けたのでござらう。暫くは唯戸口に立つて、拳を空くうにふるうて居つたが、その外の「いるまん」衆も、いろいろととりないたれば、それを機会しほに手を束つかねて、嵐も吹き出でようず空の如く、凄すさまじく顔を曇らせながら、悄々すごすご「さんた?るちや」の門を出る「ろおれんぞ」の後姿を、貪るやうにきつと見送つて居つた。その時居合はせた奉教人衆の話を伝へ聞けば、時しも凩にゆらぐ日輪が、うなだれて歩む「ろおれんぞ」の頭のかなた、長崎の西の空に沈まうず景色であつたに由つて、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火焔の中に、立ちきはまつたやうに見えたと申す。その後の「ろおれんぞ」は、「さんた?るちや」の内陣に香炉をかざした昔とは打つて変つて、町はづれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞食こつじきであつた。ましてその前身は、「ぜんちよ」の輩ともがらにはゑとりのやうにさげしまるる、天主の御教を奉ずるものぢや。されば町を行けば、心ない童部わらべに嘲あざけらるるは元より、刀杖瓦石たうぢやうぐわせきの難に遭あうた事も、度々ござるげに聞き及んだ。いや、嘗かつては、長崎の町にはびこつた、恐しい熱病にとりつかれて、七日七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、苦み悶もだえたとも申す事でござる。したが、「でうす」無量無辺の御愛憐は、その都度「ろおれんぞ」が一命を救はせ給うたのみか、施物の米銭のない折々には、山の木の実、海の魚介など、その日の糧かてを恵ませ給ふのが常であつた。由つて「ろおれんぞ」も、朝夕の祈は「さんた?るちや」に在つた昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、青玉の色を変へなかつたと申す事ぢや。なんの、それのみか、夜毎に更闌かうたけて人音も静まる頃となれば、この少年はひそかに町はづれの非人小屋を脱け出いだいて、月を踏んでは住み馴れた「さんた?るちや」へ、御主「ぜす?きりしと」の御加護を祈りまゐらせに詣でて居つた。なれど同じ「えけれしや」に詣づる奉教人衆も、その頃はとんと「ろおれんぞ」を疎うとんじはてて、伴天連はじめ、誰一人憐みをかくるものもござらなんだ。ことわりかな、破門の折から所行無慚しよぎやうむざんの少年と思ひこんで居つたに由つて、何として夜毎に、独り「えけれしや」へ参る程の、信心ものぢやとは知られうぞ。これも「でうす」千万無量の御計らひの一つ故、よしない儀とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとつては、いみじくも亦哀れな事でござつた。さる程に、こなたはあの傘張の娘ぢや。「ろおれんぞ」が破門されると間もなく、月も満たず女の子を産み落いたが、さすがにかたくなしい父の翁も、初孫の顔は憎からず思うたのでござらう、娘ともども大切に介抱して、自ら抱きもしかかへもし、時にはもてあそびの人形などもとらせたと申す事でござる。翁は元よりさもあらうずなれど、ここに稀有けうなは「いるまん」の「しめおん」ぢや。あの「ぢやぼ」(悪魔)をも挫ひしがうず大男が、娘に子が産まれるや否や、暇ある毎に傘張の翁を訪れて、無骨な腕に幼子を抱き上げては、にがにがしげな顔に涙を浮べて、弟と愛いつくしんだ、あえかな「ろおれんぞ」の優姿を、思ひ慕つて居つたと申す。唯、娘のみは、「さんた?るちや」を出でてこの方、絶えて「ろおれんぞ」が姿を見せぬのを、怨めしう歎きわびた気色けしきであつたれば、「しめおん」の訪れるのさへ、何かと快からず思ふげに見えた。この国の諺ことわざにも、光陰に関守せきもりなしと申す通り、とかうする程に、一年ひととせあまりの年月は、瞬またたくひまに過ぎたと思召おぼしめされい。ここに思ひもよらぬ大変が起つたと申すは、一夜の中に長崎の町の半ばを焼き払つた、あの大火事のあつた事ぢや。まことにその折の景色の凄じさは、末期まつごの御裁判おんさばきの喇叭らつぱの音が、一天の火の光をつんざいて、鳴り渡つたかと思はれるばかり、世にも身の毛のよだつものでござつた。その時、あの傘張の翁の家は、運悪う風下にあつたに由つて、見る見る焔に包れたが、さて親子眷族けんぞく、慌てふためいて、逃げ出いだいて見れば、娘が産んだ女の子の姿が見えぬと云ふ始末ぢや。一定いちぢやう、一間ひとまどころに寝かいて置いたを、忘れてここまで逃げのびたのであらうず。されば翁は足ずりをして罵りわめく。娘も亦、人に遮さへぎられずば、火の中へも馳はせ入つて、助け出さう気色けしきに見えた。なれど風は益ますます加はつて、焔の舌は天上の星をも焦さうず吼たけりやうぢや。それ故火を救ひに集つた町方の人々も、唯、あれよあれよと立ち騒いで、狂気のやうな娘をとり鎮めるより外に、せん方も亦あるまじい。所へひとり、多くの人を押しわけて、馳かけつけて参つたは、あの「いるまん」の「しめおん」でござる。これは矢玉の下もくぐつたげな、逞しい大丈夫でござれば、ありやうを見るより早く、勇んで焔の中へ向うたが、あまりの火勢に辟易へきえき致いたのでござらう。二三度煙をくぐつたと見る間に、背そびらをめぐらして、一散に逃げ出いた。して翁と娘とが佇たたずんだ前へ来て、「これも『でうす』万事にかなはせたまふ御計らひの一つぢや。詮ない事とあきらめられい」と申す。その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主おんあるじ、助け給へ」と叫ぶものがござつた。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭かうべをめぐらして、その声の主をきつと見れば、いかな事、これは紛まがひもない「ろおれんぞ」ぢや。清らかに痩せ細つた顔は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒髪も、肩に余るげに思はれたが、哀れにも美しい眉目みめのかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま、群むらがる人々の前に立つて、目もはなたず燃えさかる家を眺めて居る。と思うたのは、まことに瞬またたく間もない程ぢや。一しきり焔を煽あふつて、恐しい風が吹き渡つたと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまつしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁うつばりの中にはいつて居つた。「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩こがらしに揺るる日輪の光を浴びて、「さんた?るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおれんぞ」が健気けなげな振舞に驚きながらも、破戒の昔を忘れかねたのでもござらう。忽たちまち兎角の批判は風に乗つて、人どよめきの上を渡つて参つた。と申すは、「さすが親子の情あひは争はれぬものと見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたりへは影も見せなんだ『ろおれんぞ』が、今こそ一人子の命を救はうとて、火の中へはいつたぞよ」と、誰ともなく罵りかはしたのでござる。これには翁おきなさへ同心と覚えて、「ろおれんぞ」の姿を眺めてからは、怪しい心の騒ぎを隠さうず為か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚おろかしい事のみを、声高こわだかわめいて[#「わめいて」は底本では「わめいつて」]居つた。なれど当の娘ばかりは、狂ほしく大地に跪ひざまづいて、両の手で顔をうづめながら、一心不乱に祈誓を凝こらいて、身動きをする気色さへもござない。その空には火の粉が雨のやうに降りかかる。煙も地を掃はらつて、面おもてを打つた。したが娘は黙然と頭を垂れて、身も世も忘れた祈り三昧ざんまいでござる。とかうする程に、再ふたたび火の前に群つた人々が、一度にどつとどよめくかと見れば、髪をふり乱いた「ろおれんぞ」が、もろ手に幼子をかい抱いて、乱れとぶ焔の中から、天あまくだるやうに姿を現あらはいた。なれどその時、燃え尽きた梁うつばりの一つが、俄にはかに半ばから折れたのでござらう。凄じい音と共に、一なだれの煙焔えんえんが半空なかぞらに迸ほとばしつたと思ふ間もなく、「ろおれんぞ」の姿ははたと見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如くそば立つたばかりでござる。あまりの凶事に心も消えて、「しめおん」をはじめ翁まで、居あはせた程の奉教人衆は、皆目の眩くらむ思ひがござつた。中にも娘はけたたましう泣き叫んで、一度は脛はぎもあらはに躍り立つたが、やがて雷いかづちに打たれた人のやうに、そのまま大地にひれふしたと申す。さもあらばあれ、ひれふした娘の手には、何時かあの幼い女の子が、生死不定しやうじふぢやうの姿ながら、ひしと抱かれて居つたをいかにしようぞ。ああ、広大無辺なる「でうす」の御知慧おんちゑ、御力は、何とたたへ奉る詞ことばだにござない。燃え崩れる梁に打たれながら、「ろおれんぞ」が必死の力をしぼつて、こなたへ投げた幼子は、折よく娘の足もとへ、怪我もなくまろび落ちたのでござる。されば娘が大地にひれ伏して、嬉し涙に咽むせんだ声と共に、もろ手をさしあげて立つた翁の口からは、「でうす」の御慈悲をほめ奉る声が、自らおごそかに溢れて参つた。いや、まさに溢れようずけはひであつたとも申さうか。それより先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の中へ、「ろおれんぞ」を救はうず一念から、真一文字に躍りこんだに由つて、翁の声は再ふたたび気づかはしげな、いたましい祈りの言ことばとなつて、夜空に高くあがつたのでござる。これは元より翁のみではござない。親子を囲んだ奉教人衆は、皆一同に声を揃へて、「御主、助け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。して「びるぜん?まりや」の御子みこ、なべての人の苦しみと悲しみとを己おのがものの如くに見そなはす、われらが御主「ぜす?きりしと」は、遂にこの祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたらしう焼けただれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕に抱かれて、早くも火と煙とのただ中から、救ひ出されて参つたではないか。なれどその夜の大変は、これのみではござなんだ。息も絶え絶えな「ろおれんぞ」が、とりあへず奉教人衆の手に舁かかれて、風上にあつたあの「えけれしや」の門へ横へられた時の事ぢや。それまで幼子を胸に抱きしめて、涙にくれてゐた傘張の娘は、折から門へ出でられた伴天連の足もとに跪ひざまづくと、並み居る人々の目前で、「この女子をなごは『ろおれんぞ』様の種ではおぢやらぬ。まことは妾が家隣の『ぜんちよ』の子と密通して、まうけた娘でおぢやるわいの」と思ひもよらぬ「こひさん」(懴悔)を仕つかまつた。その思ひつめた声ざまの震へと申し、その泣きぬれた双の眼のかがやきと申し、この「こひさん」には、露ばかりの偽さへ、あらうとは思はれ申さぬ。道理ことわりかな、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さへつかぬやうに声を呑んだ。娘が涙ををさめて、申し次いだは、「妾は日頃『ろおれんぞ』様を恋ひ慕うて居つたなれど、御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹の子を『ろおれんぞ』様の種と申し偽り、妾につらかつた口惜しさを思ひ知らさうと致いたのでおぢやる。なれど『ろおれんぞ』様のお心の気高さは、妾が大罪をも憎ませ給はいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、『いんへるの』(地獄)にもまがふ火焔の中から、妾娘の一命を辱かたじけなくも救はせ給うた。その御憐み、御計らひ、まことに御主『ぜす?きりしと』の再来かともをがまれ申す。さるにても妾が重々の極悪を思へば、この五体は忽たちまち『ぢやぼ』の爪にかかつて、寸々に裂かれようとも、中々怨む所はおぢやるまい。」娘は「こひさん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き伏した。二重三重ふたへみへに群つた奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ声が、波のやうに起つたのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐む心から、御主「ぜす?きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でなうて、何でござらう。したが、当の「ろおれんぞ」は、娘の「こひさん」を聞きながらも、僅に二三度頷うなづいて見せたばかり、髪は焼け肌は焦げて、手も足も動かぬ上に、口をきかう気色けしきさへも今は全く尽きたげでござる。娘の「こひさん」に胸を破つた翁と「しめおん」とは、その枕がみに蹲うづくまつて、何かと介抱を致いて居つたが、「ろおれんぞ」の息は、刻々に短うなつて、最期さいごももはや遠くはあるまじい。唯、日頃と変らぬのは、遙に天上を仰いで居る、星のやうな瞳の色ばかりぢや。やがて娘の「こひさん」に耳をすまされた伴天連は、吹き荒すさぶ夜風に白ひげをなびかせながら、「さんた?るちや」の門を後にして、おごそかに申されたは、「悔い改むるものは、幸さいはひぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益ますます、『でうす』の御戒おんいましめを身にしめて、心静に末期まつごの御裁判おんさばきの日を待つたがよい。又『ろおれんぞ』がわが身の行儀を、御主『ぜす?きりしと』とひとしく奉らうず志は、この国の奉教人衆の中にあつても、類たぐひ稀なる徳行でござる。別して少年の身とは云ひ――」ああ、これは又何とした事でござらうぞ。ここまで申された伴天連は、俄にはかにはたと口を噤つぐんで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭うやうやしげな容子ようすはどうぢや。その両の手のふるへざまも、尋常よのつねの事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頬の上には、とめどなく涙が溢れ流れるぞよ。見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす?きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた?るちや」の門に横はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣ころものひまから、清らかな二つの乳房が、玉のやうに露あらはれて居るではないか。今は焼けただれた面輪おもわにも、自おのづからなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて「さんた?るちや」を逐おはれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼まなざしのあでやかなこの国の女ぢや。まことにその刹那せつなの尊い恐しさは、あたかも「でうす」の御声が、星の光も見えぬ遠い空から、伝はつて来るやうであつたと申す。されば「さんた?るちや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹かれる穂麦のやうに、誰からともなく頭を垂れて、悉ことごとく「ろおれんぞ」のまはりに跪ひざまづいた。その中で聞えるものは、唯、空をどよもして燃えしきる、万丈の焔の響ばかりでござる。いや、誰やらの啜すすり泣く声も聞えたが、それは傘張の娘でござらうか。或は又自ら兄とも思うた、あの「いるまん」の「しめおん」でござらうか。やがてその寂寞じやくまくたるあたりをふるはせて、「ろおれんぞ」の上に高く手をかざしながら、伴天連の御経を誦ずせられる声が、おごそかに悲しく耳にはいつた。して御経の声がやんだ時、「ろおれんぞ」と呼ばれた、この国のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほほ笑みを唇に止めたまま、静に息が絶えたのでござる。……その女の一生は、この外に何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござらうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換へ難い、刹那の感動に極るものぢや。暗夜の海にも譬たとへようず煩悩心ぼんなうしんの空に一波をあげて、未いまだ出ぬ月の光を、水沫みなわの中に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。二予が所蔵に関る、長崎耶蘇会出版の一書、題して「れげんだ?おうれあ」と云ふ。蓋けだし、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必しも、西欧の所謂いはゆる「黄金伝説」ならず。彼土かのどの使徒聖人が言行を録すると共に、併あはせて本邦西教徒が勇猛精進の事蹟をも採録し、以て福音伝道の一助たらしめんとせしものの如し。体裁は上下二巻、美濃紙摺みのがみずり草体交さうたいまじり平仮名文にして、印刷甚しく鮮明を欠き、活字なりや否やを明にせず。上巻の扉には、羅甸ラテン字にて書名を横書し、その下に漢字にて「御出世以来千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻るこく也」の二行を縦書す。年代の左右には喇叭らつぱを吹ける天使の画像あり。技巧頗すこぶる幼稚なれども、亦掬きくす可き趣致なしとせず。下巻も扉に「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上巻と異同なし。両巻とも紙数は約六十頁にして、載のする所の黄金伝説は、上巻八章、下巻十章を数ふ。その他各巻の巻首に著者不明の序文及羅甸ラテン字を加へたる目次あり。序文は文章雅馴がじゆんならずして、間々まま欧文を直訳せる如き語法を交へ、一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。以上採録したる「奉教人の死」は、該がい「れげんだ?おうれあ」下巻第二章に依るものにして、恐らくは当時長崎の一西教寺院に起りし、事実の忠実なる記録ならんか。但、記事中の大火なるものは、「長崎港草」以下諸書に徴するも、その有無をすら明にせざるを以て、事実の正確なる年代に至つては、全くこれを決定するを得ず。予は「奉教人の死」に於て、発表の必要上、多少の文飾を敢あへてしたり。もし原文の平易雅馴なる筆致にして、甚しく毀損きそんせらるる事なからんか、予の幸甚とする所なりと云爾しかいふ。(大正七年八月)
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