あした 中田春平先生が わたしたちの学校へ...

日本人学校へ教員1割増 国の派遣、15年度1200人に
日本経済新聞 電子版
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 文部科学省は27日、2015年度に海外の日本人学校へ国が派遣する教員数を今年度比1割増の約1200人とする方針を決めた。増加は9年ぶり。企業の海外進出に伴い日本人学校に通う児童生徒が増え、経済界が増員を要望していた。同省は15年度予算の概算要求で前年度比約20億円増の187億円を盛り込む。 文科省は、各国にある日本人学校の全教員のうち8割を目標に日本から派遣し、給与や渡航費を負担している。しかし…
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日本経済新聞社について本校の歴史その10 府内の旧制中学校
No.17  木村智彦 平成23年度公式メッセージ
平成23年5月26日(木)
歴史その8、その9において旧制中学と旧制中等学校の違いとその歴史的経緯について様々な視点で記してきた。旧制浪速中学校は「旧制中学校」であることを確認した。旧制中学は中等学校と違いその教育の中身は「普通科の学校」で実業教育を主体とするものではなかった。
旧制中学はまず明治の一時期「尋常中学校」と称されその後明治19年中学校令でもって「中学校」となった。従って沿革に尋常中学校から始まっている学校は歴史のある学校である。大阪府立で言えば現在の府立北野高校に見ることが出来る。
北野は「大阪府第一尋常中学校」を始まりとしその後「北野中学校」そして戦後「北野高校」と変遷した。旧制中学校は含めて第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策によって定められた1948年の「学校教育法」の下で新制の高等学校へと転換されたのである。
現在の新制浪速高等学校の誕生である。この時に多くの公立学校は共学化された。「高等女学校との合併」である。しかし私学の大半は「男子校」のまま残った。本校も戦後60年間男子校として存在し共学になったのは実に平成17年のことであった。
話を旧制中学に戻そう。明治19年の中学校令は明確に「授業内容を規定」しており1931年までは旧制中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。
特に本校では「ドイツ語教育」が有名であったと記録にある。「浪中名物」とまで言われたそうである。第一次世界大戦前で日独協定時代のこともあり、日独親善のためドイツ語教育で覇を競っていたのであろうか。
昭和2年頃から19年ごろまであったと言う。上宮中学にも有り浪中、上宮中の合同研修会が上宮中学であった時の写真が残っている。日本とドイツナチスの国旗を掲げドイツ総領事も出席している。
本校にも総領事が来られドイツの男女学制が大勢来て講堂で交歓会を催したとある。わずか13歳や14歳でドイツ語の勉強だから立派ではないか。今では大学の教養でしか習わないドイツ語を旧制中学の生徒は学んでいたのである。
しかし私が注目するのは上宮中学と合同研修会である。色々と資料を探ってみると当時の旧制中学はお互い学校をオープンにして勉強会を行っているところが素晴らしいと思う。その証明は浪速中学校第一期生の卒業記念帖にある「学年史」からも分かる。
毎年10月には「府下中学校聯合競技会」があり、必ず参加していた。その他実に多く外部の声に耳を傾ける機会を有している。「立派な人の話を聞け」という教育の根本がそこにあると私は考えるのである。
例えば第一期生は5年間の間に実に多くの講演者を学校に招聘してお話をしてもらっている。「嘉納治五郎」先生もあったし「西野田職工学校長豫田氏ノ南洋観察談ヲ聰ク」というのもあった。神社界からも多くの神職の方が講演というか授業をされているのである。
何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出していたのである。
従って旧制中学校の後身となった高等学校は現在の地域の中核校、伝統校として難関?進学校であるとされている場合が多い。しかし入試改革や新たな学校群、総合選抜とかの新しい方法は旧制中学と言えどもそのレベルを簡単に低下せしめた。
一方実業学校の中には戦後進学実績を伸ばし旧制中学に負けない新たな校風を確立し社会の支持を得ている学校もある。府内でもそのような私立高校は多く見られるのである。しかし「出自」は重要なアイテムである。自分ではどうしようもないアイテムであり長い年月を経て今に存在する伝統校というのはそこに関係する人間をして「誇り」を持たせる。
私は今浪速高校浪速中学校の生徒、その保護者、教職員全てに本校の歴史を正しく認識し誇りを持って欲しいと思う。それが21世紀に生きていく力になろうと思う。先人の苦労を思い、働ける場所を作り残してくれた偉大なる諸先輩に感謝しなければならない。
ここで記録のために大阪府内の旧制中学校の歴史の変遷を記述しておきたい。「学制と言うのは国策そのもの」であり当初から「公立主体」であったが明治32年(1899年)「私立学校令」が制定され公立私立の区分がなされてきた。
しかし特に浪速中学校はこのブログに書いてきたように大阪府との密接な関係を有し支援を受けて誕生した学校である。現下の本校の実力を考えた時に本校の創立に関与された先達の人々は如何に思われるであろうか。
それだけに私は私立の旧制中学校が6校、公立の旧制中学校が20校あるがそれらの学校郡の中で本校のポジションを正しく捉え教職員は誇りを持って「学校改革を推進」し生徒の為に不断の努力を期待したいのである。
特に橋下知事の誕生以来大阪府は公立、私立授業料無償化の中で生き残りをかけた市場競争の真っ只中にある。このことが良いか悪いかの議論ではない。明治以来の伝統を有する学校だけにこの勝負に負けて衰退させる訳には行かないのである。現在の教職員が頑張って呉れれば絶対に負ける訳が無い。私は確信している。第3部 努力は涙とともに|学園祖 中村ハル自伝 努力の上に花が咲く|中村学園資料室|図書館|中村学園大学?中村学園大学短期大学部
第3部 努力は涙とともに
学園祖 中村ハル自伝 努力の上に花が咲く
第3部 努力は涙とともに(その2)
郷里福岡へ帰る
私が四十七歳(数え年)で再び郷里福岡に帰って来るようになったことについては、私立九州高等女学校の創立者であった釜瀬新平初代校長の病死が大きく左右しております。釜瀬新平先生は前に述べたように地理の大家で、私が福岡師範学校生徒時代に親しく指導を受けた恩師です。
この因縁の深い釜瀬先生が亡くなられる一年前、ひょっこり明親高等小学校に参観に来られました。私の活動状況を知られてたいへん喜ばれて申されるには「これは相談だが、中村さん。ひとつ我が九州高等女学校に来て家庭科の指導を担当してくれんか」とのことです。私は九州高等女学校とはどんな学校か、そのころはまったく知りませんので、はっきりした返事も出来ず「私もいつまでも神戸にいるつもりはありません。いずれは故郷の福岡に帰らねばならぬと考えています。その節は御校に御世話になることと思います。よろしくお願いします」と申しあげておきました。このとき釜瀬先生は上京の途中神戸に立ち寄られたの.ですが、時間の余裕もあるようでしたので神戸牛の専門店みつわに御招待しました。先生も御満悦の様子で、牛肉の料理やスキヤキをつついておられました。夜行の神戸発で東京に発たれましたが、私は駅まで見送りに行きました。これが先生との最後のお別れになったのです。
その後、お礼状も来ねば何の音沙汰もありません。福岡に帰郷したついでに先生を尋ぬて行ってみますと、東京で発病されて帰宅されたまま御重病で回復もむずかしかろうとのこと。人間の因縁とはまことに異なもので、神戸で御会いしたのが不思議な縁だったなあと悲しく思われてなりませんでした。その後間もなく、釜瀬先生が亡くなられたとの知らせに接しましたが、学校の都合で暇がとれず弔電を打ってはるか神戸の地から先生の御めい福を祈ったのであります。
この釜瀬先生が亡くなられたころは世の中一般が不景気のどん底にあえいでいる時代で、私立学校に入学して来る生徒も少なく、福岡県下の私立学校はどこも一様に苦労していたと聞いております。そこへもってきて、創立者である初代校長がなくなられるという二重の苦難に見舞われた九州高等女学校の窮状はどんなだったか大体の想像はっきます。これを見かねて、釜瀬先生と親友の間柄であった安河内健児先生が福岡県視学の地位を退いてこの学校の態勢を立て直すべく二代目校長として就任なさる決心をされたとのことであります。
県視学といえば、当時教育界の目付役的存在で、私がかつて福岡県で小学校教員をしていた時代、県視学の安河内先生は切れ者のそうそうたる方であると聞いていました。その安河内先生が、釜瀬先生のあとにすわられるのですから、並々の覚悟ではなかったことがうかがわれます。
安河内先生は教員組織を新しく強化することを重視され、国語科には誰々、数学科には某々、地歴科は何先生との構想を持たれ、家庭科主任として私に是非就任してくれとのお頼みです。釜瀬先生との約束もあり、いずれは九州高女に御世話になる覚悟はしていたものの、そのころは神戸で最もはなやかに活躍している最中で未練もあり、そうたやすく神戸を離れたくもありません。しかも、昭和五年の六月には増俸して一挙に百六十円の月俸になることになっていました。それでしばらく待って下さいと再三、お断わりしたのですが、安河内先生の腹づもりでは、四月始めに一新した教員を勢揃いさせたい意向らしく、一向にこちらの言い分を聞いて下さる風もなく、電報を続けざまに打たれての矢の催促です。私の将来の都合、具体的にいえば恩給にしても六月以降に神戸を辞めればぐっと違ってくるのですが、恩になった方のことで無下にも断わられず、とうとう腹をきめて神戸市教育課に願い出て退職することにしました。
ここに、神戸市明親高等小学校訓導を最後に、明治三十五年四月以降二十八年間にわたる公立学校教員生活に別れを告げ、以後私立学校に関係するようになったのであります。そのときの辞令
昭和五年四月二十二日 小学校施行規則第百二十六条第二号後段により退職を命ず
この辞令をいただいて、最もはなやかな思い出の残る神戸をあとにし、寂しく九州高等女学校に赴任したのであります。
九州高女再建に努力
実をいうと、私が九州高等女学校への赴任の話が起こるまで、この学校があることさえ知らなかったのです。福岡の出身で、しかも母校の福岡師範のそばにありながらどうして九州高女を知らなかったのでしょうか。昔はそれほど私立学校を問題にしていなかったことがわかります。さて、九州高女に着任して校舎内を見てまわってがっかりしました。以前おりました神戸の明新高等小学校は高等小学校とはいえ、鉄筋コンクリートの堂々たるもの。特に、家事科の設備に至っては私が思うように設備をしてもらっています。調理室の実習台も至れり尽くせり。
ことに洗濯実習室では、洗濯槽は皆コンクリートで作り、部屋の一隅に湯沸器をおいてコック一つひねればガスに火がついて湯が出る仕掛け、洗濯のときは湯でも水でもコックを回せば自由自在に出るようになっていました。もっとも、この設備をするときは市の横尾課長が「中村先生はとんでもない理想的な設備を申し出られるので、金がかかって困る」とこぼしておられたとは聞いていましたが。?????????もっとも、後には神戸市の家事教育の進んでいることが世間に拡がり、毎日のように参観者があるようになると、横尾先生も自慢の種で悪い気はしていなかったようでした。
話が少し横道にそれましたが、そのような学校で家事教育の指導に当たってきているものですからがっかりするのも当然です。割烹室は板張りが古くなって所々床が落ちそうなところもある実習台は、木造トタン張りはよいとしてさびだらけ。廊下の天井を見上げると、松の丸太がそのまま見るのでちょうど農家の倉庫の感じ。私はこれはしまった。もう少しよく調べておけばよかったと思ったが、後の祭り。胸の中には何となく釈然としないわだかまりが残ってはいましたが、いまさら愚痴をいっても始まらないし、第一大人気ないと一通り校舎を見まわって帰ってきました。安河内校長先生は待ちかまえていたように「中村さん、今日は釜瀬新平氏の御霊前にお参りしましよう。そして、あなたの待遇も決めておきましょう」とのこと。
待遇のことも安河内先生のことではあるし、つまらぬことはなさるまいと安心してそんなことにはまったくふれることなく、矢の催促の電報にせき立てられて赴任した私でした。釜瀬先生の自宅に案内されて、釜瀬先生未亡人と私と安河内先生と三人だけで仏前に合掌しました。お茶を頂いていると、安河内先生が話しかけてこられました。
「中村さんは、神戸では月給百十円、百二十円-今回は百四十五円になっていたそうだが…。この九州高女は私立学校の一番苦しい時期、おまけに校長先生まで亡くなられてとても困っている。借金が十万円ばかり、これを返すのにも十年はかかる。生徒の入学も減ってきてどうしょうかと思っているくらいだから、百四十五円なんかとても出せません。?????????まあ、八十円に値下げして頂かねばならないでしょう。昔からおられるほかの先生方の俸給も皆値下げしているのですから、八十円で辛抱してくれませんか」
値下げも一級か二級くらいなら世間には例もありますが、百四十五円から一挙に八十円とはひどい話です。そこで、私もはっきりいいました。
「待遇の件は先生のことですからお任せして安心して赴任しましたが、八十円とは人が聞いたら笑いますよ。そんなに財政が苦しいんでしたら、無理はいいません。せめて百円ぐらいでしたら辛抱しましょう」「人には百円といっておいてよいじゃないですか。今の状況では八十円…」しばらく黙って算盤をはじいておられましたが、先生は思い切ったように、「それでは八十五円にしておこう」と大きな声でいわれました。私も気の毒になってそれ以上無理をいう元気もなく、それでは八十五円で辛抱してがんばりましょうと約束したのです。
月給の方はこんな調子でしたが、教員としての席次は上の方で家庭科の主任につけられました。安河内先生は私が以前福岡県内で教員をしていた時代に御世話になった方で、その先生が何とか釜瀬校長亡きあとの九州高女を隆盛に導こうと腐心されている姿を見て、私も待遇などにこだわらず全力をあげて教育に専念、この九州高女の名声を高めるよう損得を度外視して働き続けました。
こうして五年たったある日、校長室に呼ばれました。一体何の用事だろうかと伺いますと「中村さん、五年間一銭も増俸しなかったので、あなたも寂しかったろう。今日は久し振りに増俸してあげます」とおっしゃって五円増加、これで月給九十円になったわけです。
このころの九州高女の入学募集については、いろいろと思い出があります。だんだんと九州高女にもなれ、私立学校の事情などもわかってきて疑問に思ったのは、「どうして九州高女には生徒の集まりが悪いんだろう。あの偉い釜瀬先生の経営にしてはあまりにみじめな状況だが??????」
私が赴任してしばらくたってあちこちに生徒募集に回りました。最初、近くの当仁小学校に行って校長の伊藤先生に会いました。この方は、私が以前男子師範付属小学の訓導時代に知り合いになった方。生徒募集に参った挨拶をしますと、先生がいわれるのに「中村さん、すまないが九州高女希望の者はたった二人しかいない。しかも成績が悪くて困っている」とのこと。
これで私もがっかりして、いろいろ考えさせられました。近くの当仁小学校の父兄が九州高女をきらうのには、何か以前九州高女のやり方にまずい点でもあったのではなかろうか?とにかく、成績の良い者は女子の場合、まず県立高女(現中央高校)に行くのはまあやむを得ないとして、第二は私立筑紫高女に行きます。同じ私立でも、筑紫の方はなかなか評判がよいのです。「どうしてこんなに違うのだろうか?」私はやっきになって生徒募集に回りました。
「私立は生徒をたくさん入れねば経営はうまくいかないんだから」と自分にいい聞かせて???。横浜や神戸では女教員として日本一の待遇まで受けた私でも、時世が変ればいたし方ありません。そこで自分の金を出して菓子箱を買い、夜分小学校の女の先生宅を訪問し、おなさけの先徒を一人でも二人でも九州女学校に送って下さるようコトコト歩き回って頼んだものです。
博多の冷泉小学校を訪問したときのことです。入試組担任の先生が入れ替り立ち替り会って下さいました。例の通り、是非多数の生徒を九州高女に送って下さいと頼みましたところ、男子の先生は皆「九州高女には希望者は一人もありません」との返事。たった一人、最後にお会いした若い女の先生が「私のクラスに一人おりますが、この生徒でよかったら送りましょう」とのこと。そこでその子の成績を見せてもらってびっくりしました。成績がビリなんです。私は神戸時代はなやかな教員生活を送ってきたものですから、侮辱されたと思いムッとして「いくらなんでもこんな生徒は入れられません」と奮然として断わってしまいました。後日、このことが問題になったのです。山田先生といわれ、早くから九州高女に勤めておられた先生が、私のあとその小学校に生徒募集に行かれたところ「先日、中村先生が来られてそんな成績の悪い子は我が九州高女にもいりませんとけられましたので、九州に行く生徒は一人もいませんよ」との返事があったということが会議の席上問題にされたのです。
「劣等生だろうが何だろうが、何でも入れないと入学者が足らんじゃないか」と、さんざん文句をいわれ、私はもう情けなくてくやし涙が出ました。またしても、私の頭の中に疑問がかすめるのであります。この九州高女にしても、創立の歴史からいえば、私立筑紫とそう違わないのにどうしてこんなみじめな状態なのだろうか。こんな学校とは知らないで赴任したことが、急に悲しくなりました。こんなに九州高女の評判が悪いのは一体どこに原因があるのかを知るため、春吉小学校や警固小学校を尋ねて行きました。春吉には宮原校長、警固には奥園校長がおられたからです。両先生とも私が付属小学校訓導時代の同僚で気やすい方でした。両先生とも同じように
一、九州高女は非常に寄付金が多く、何かといえばすぐ寄付金募集がある。二、小学校の若い先生を呼んで飲ませ食わせして生徒募集をやっている。
「こんな学校には私共が預っている大切な生徒は送られません。しかし、安河内校長が後継され、あなたや男子の優秀な先生方が赴任されたそうだから、これからは生徒も送りますよ。中村さん、しっかりがんばんなさい」とあとでは激励を受けました。やはり教育というものは物質金銭をはなれ、誠心誠意生徒に対して愛の教育を行なわねば学校は発展するものでないことをつくづく感じさせられると同時に、
(一)私立学校の通弊である寄付金募集はいけない。(二)本当に教育のため全心全霊を打ち込んで活躍するりっぱな教師をそろえ、充実した教員組織を作ること。
が如何に私立学校経営上大切なことであるかをいやというほど知らされました。分类学习站点
第四課 天気とわたしたちの生活
所属专辑:新编日语(第三册)
演唱人:语言学习
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第四課 天気とわたしたちの生活晴れたり、曇ったり、雨が降ったり、雪が降ったり、風が吹いたり、天気はさまざまに変化します。この天気の変化は、わたしたちの生活に深い関係があります。朝、学校へ行くとき、かさを持っていこうか、持っていくまいかと空を見上げて考えたことはありませんか遠足や運動会の前の日に、天気を心配しててるてる坊主を作ったことはありませんかからりと晴れあがった日にはわたしたちの気持ちもさわやかになります。じめじめした雨の日には、わたしたちの気持ちもめいりがちです。急に寒くなれば、風邪を引きやすく暑さが続けば、胃腸をこわしやすくなります天気は、わたしたちの気分や体のぐあいにも関係があるのです天気は、単に、わたしたちのふだんの生活に関係があるだけではありません。世の中には、毎日の仕事をするために、いつも天気のことに気を配っていなくてはならない人たちがたくさんいます。農家の人たちは、種まきをするのにも、肥料をやるのにも、天気のことを考えなければなりません雨が多すぎれば、作物の成長が遅れるし日照りが続けばかれてしまいますせっかく実った作物が風水害にあう心配もあります。漁業にたずさわる人たちは、何よりも天気のことを心配します雨や風が強くて海が荒れれば港から船を出すことができません風の吹き方によって、魚がたくさんとれたり、とれなかったりすることもあります。こんにちは。こんにちは。いい天気になりましたね。ええ、こんないい天気はめったにありませんね。国へ帰った鈴木さんはうれしいでしょうね。ええ、国へ帰るのは一年ぶりだと言っていましたから、きっと喜んでいるでしょうね。でも、きのうは気の毒でしたね。あんなあらしの中を、大きな荷物を持って。あの荷物は重かったでしょうね。お盆なので電車がこんで、たいへんだったでしょう。いま、どの辺でしょうか。きっと、もうおうちに着いたでしょう。お墓参りに行っているでしょうか。まだでしょう。たぶんお土産でも広げているでしょうあしたは山に登ると言っていましたね天気はどうでしょう。そうですね。ちょっと天気予報を聞いてみましょう良子さん、ちかごろは忙しいですか。いいえ、別に忙しくありませんけど。じゃ、あした、ドライブに行きませんか。わあ、いいですね。どこへ?良子さんの好きな所へ行きましょう。じゃあ…、そうですね…、海を見に行きませんか。海ですか。じゃあ、江の島はどうですか。ええ、いいですね。あのう、お天気はどうでしょうか。天気予報によると、あしたは晴れときどき曇りだそうですよじゃあ、大丈夫ですね。たぶん、雨は降らないだろうと思いますよあのう、良子さんの弟さんもいっしょにどうですか。弟は友達と野球を見に行くと言っていましたから行かないだろうと思いますよ。それは残念ですね。ええ。弟は、またこの次、誘ってください。じゃあ、あしたは十時ごろ迎えに行きます。はい。じゃ、お弁当を作って持って待っています。単語曇る 風 吹くさまざま(様様) 深い かさ(傘) 見上げる遠足 照照坊主 からり晴れ上がる さわやか(爽やか)じめじめ めいる(滅入る)胃腸 単に 気を配る 農家種まき(種蒔き) 肥料 作物成長 日照り 枯れる 実る風水害 あう(遭う) 漁業 たずさわる(携わる) あれる(荒れる)港 めったに(滅多に) あんなあらし(嵐) 辺 墓参り 武江の島 次 沖縄 梅雨 空模様中国 近畿 中部 関東東北 南部 小雨 確率 神奈川千葉 埼玉 栃木 茨城群馬 日中 最高 最低各地 のち(後) 朝晩 一時より にわか雨 がち
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作者名称:语言学习
作者性别:男
成员类型:单人
所属国家:欧美国家
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语言学习第四課 天気とわたしたちの生活歌曲在线试听、歌词由沪江外文歌曲提供

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